2009-03-06
伏見徒然草 vol.54
● 伏見徒然草 vol.54「恋愛にまさるドラッグなし」(バディ 08.6)
若い人と話しをするのは新鮮だ。先日、とある飲み会で学生さんと会話していたときのこと。
よくあるオカマ同士の自己紹介の流れで、
「で、恋人はいるの?」
とひとりに振ってみると(……べつに、下心があったわけじゃないんだけどね)、
「ぼく、まだ付き合った男は一人しかいないんです。それも三ヶ月だけ」
彼は若干二十三歳なので、そのこと自体は珍しくもないし、付き合ったことがあるないで言えば、三十路を越えた淫乱オカマでも恋愛経験をしたことがないのはふつうにいる。ところが、彼の場合、
「だからまだ経験がないです……」
一瞬耳を疑って、
「複数プレイをしたことがないってこと? あるいはフィストの経験がないとか?」
とカマしてみるが、
「セックスしたことないんです」
「だって彼氏がいて付き合っていたんでしょ?!」
とたたみ掛ければ、
「付き合ったと言っても、四回デートしただけですから。四回くらいでセックスなんかできないでしょう」
ぼくも含めて周囲にいたオカマたちは唖然。逆に四回もデートして何もなければセックスレスの関係確定とも言えるが(そういうこと、よくあるよね?)、セックスに至るまでに女性みたいな段階を踏もうという若ゲイが、いまどきいようなんて! このゴーグル乱交の時代に!!
彼がモテないタイプで童貞だというのならまだ理解もできるのだが、見た目はいま風で、けっしてエロス的に点数が低いわけでもない。他人に配慮もあり会話も面白い。それでいてどうしてそんなに奥手なの? これまで周囲がほっておいたの?と。ゲイであることを自己肯定してゲイのネットワークに接続するようになって日が浅いこともあるようだが、いまだゲイコミュニティのエロスゲームとはまったく無縁なのである。
横にいた童貞君と同年代の学生に、
「君も童貞なの?」
と一応振ってみるが、こちらはお定まりの、
「いえ、もう百人くらいは……喰ってます」
童貞君はその本数に驚いていたが、十代でデビューし、(発展場などでの本数も入れて)月に平均して二本喰っていたら、年間二十四本、五年もすれば百本くらいにはなるわけである。これはけっして稀なケースではない。少なからずのゲイが胸に覚えありですよね?(ちゅーか、十年、二十年経ったらいったい何本喰っていることになるのか)。
よく考えてみれば(よく考えなくても)二十三歳で百人と寝ているよりも童貞であることのほうが、世間一般(ノンケ界)ではまったくもってふつうで、百人斬りは桁外れのヤリマンである。ましてや昨今、オタク方面など性的に引きこもっている男子が増えているわけで、この性的な格差は天と地ほどある。
HIVの問題などで、「ゲイの性行動はノンケよりも活動的だ」などと言ったりすると、よく「そんなゲイばかりではない」という反論が出るが、「二十三歳で百人」がそれほど珍しいケースではないとすれば(ないとすれば、よ)、平均すればかなりゲイの性行動は活発だと思うのが当たり前だ。もちろん、だから悪い、と言いたいのではない。ただそういう文化を作ってきたということ。そうした文化が作られる理由があったということだ(そしてその文化は性感染症と相性がいいということも事実)。
しかしぼくらはなぜ性的に活発なのだろうか。ひとつには男性同士の性行為が、男女よりも敷居が低いということがある。妊娠のリスクがないことと、男女の性役割りの規範(女性が性的に規制される傾向)がないことが影響している。現在では男女間の性行為もずいぶん安直に行われるようになったし、性規範も以前とは比べ物にならないほど緩やかになったが、ゲイとノンケの間にはまだ大きな差がある。
そして、これはゲイでももはや古い世代にしかわからなくなってきた感覚だが、かつては同性愛の欲望を持った相手と出会うことは稀で(ネットもなければ雑誌も流通していない時代ならいっそう!)、一度そうした人と遭遇したのならば、千載一遇、ここでやっておかなければ二度とチャンスはない!という強迫観念にとらわれた。というか、そこにあったのは飢餓感とも言えるが。差別や抑圧も強く周囲の目を気にする必要があったため、エッチは次に会ったときに、などと思っている余裕がなかったのだ。もうチンコを見ればパクリである(これはかなり大袈裟)。さらに言えば、当人同士の嫌悪感が強かったので、相手を信用できず、出会っても一つの関係を継続させることができなかった。
そうした状況のなかで発展してきたのが、暗がりのなかで一時の快楽を共有する文化だった。ぼくが若くてデビューした当時は、それに対して刹那的で不道徳だという印象を抱き、若気の至りで軽蔑すら感じたものだが、慣れてそこに乗っかってみると、プラスの面、面白い面も多々あり、いまとなってみれば、ユニークな文化だと思う。それはある必然から生み出されたものとしか言いようがない。
一方、ゲイに対する社会的な差別や抑圧が薄まってくると、出会いはがっつかなくても、いつでも手に入れることができるもんね、となった。先に紹介した童貞君のようなタイプは過去もそれなりにいたはずだが(ぼくだって若い頃はもっと奥手だった!)、これからもっと増えてくるのかもしれない。落ち着いて、ゆっくり知り合ってからセックスに至ることを望む男同士の文化が育っていく可能性だって、近未来ないとは思わない。
そう、これからはまさにゲイの性愛文化も多様化していくだろう。古式ゆかしきヤリヤリ系の文化も相当根強く生き残っていくはずだし、一方で、恋愛が再発見され、その感情を大切に育もうとする関係を求める人たちも増えてくる。また永続的な関係を求めることを「パートナーシップ」として、それと性愛とを分けてとらえていこうとする大塚隆史さんのような流派の人たちも一角を占めていくと想像する。さらに、性愛は性愛として、ひとりで生きていくことを基本と考える思想も今後生まれてくるだろう。後続の人たちは、そうした様々な流派のどれに自分の感性がフィットするのか参照しながら、自分の人生を選択していくことができるようになる。そしてすでにあるどれにも当てはまらなければ、自分自身のライフスタイルを作っていけばいい。
ところで、人生も折り返し地点も過ぎて、性愛もそろそろ枯れてきたところで振り返ると、思春期の恋愛感情ほど興奮できるものはなかったと痛感する。以来ン十年、レアな行為を追求したり道具立てを増やしたり(笑)、さまざま工夫をしてみたりもしたが、あの時代のつたない性愛ほど官能的なものはなかった。媚薬はたくさんあれど、恋愛ほど強烈で、効果的なドラッグはない、ということだ。
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