2007-07-03

QJw「会社で生き残る!」7

vol.2.jpg環境分野の企業●43歳
自分を虐めてやろうと営業職に

[名前]しげ
[居住地]東京
[業種]環境分野の企業
[職種]水質分析・主任

・昭和の田舎ゲイ

ぼくはある意味、典型的な「昭和の田舎のゲイ」だったと思います。生まれたのは昭和37年で、比較的保守的な土地柄の山口県宇部市で育ちました。父親は11人兄弟の長男だから、とにかく親戚縁者の多さは普通じゃありませんでしたね。その親父の長男だから、家を継ぐという意識は自然に植え付けられました。当時はセクシュアルマイノリティに肯定的な「ゲイカルチャー」なんてものはかけらもなかったから、思春期に入って自分の性癖に気づいてからの葛藤は、半端じゃなかった。小学6年のころにはもう薄っすらとその自覚があったし、中学の時分には「このままずっとここにいたら、いつか殺されるんじゃないだろうか」と本気で危惧していました。

実家から離れて自立しなくては、という意識は、そのころに既に芽生えていたと思います。自立というより逃げ出したいというところですね。こんな環境に育ったんですが……不思議なことに初体験の相手は、一つ年上の従兄弟でした。まさか親戚に手ほどきをうけるとは。ぼくは14歳でした。正月で親戚一同が集まった夜、その従兄弟にエロ本を見せてもらっていたときのこと。興奮した従兄弟に勃起したペニスを目の前に出されて、「握ってくれ」と言われて(笑)。相手に恋愛感情を抱いていたわけじゃないから、かなり戸惑ったな。「こういうのって、いけないことなんじゃないの? 『ホモ』になっちゃうよ!」なんて。でも、相手は年上だから「野球部じゃこういうのはあたりまえなんだよ」「後輩は先輩のを握ってやるもんなんだ!」とか、言葉巧みに丸めこまれてしまって。それが同性との、はじめての性体験。といっても、その従兄弟はけっきょくゲイではなかったんだと思います。いまじゃ子供も3人いるし、バリバリの女好きですしね。その後、ぼくは完全に、彼とは正反対のベクトルへ走りだしてしまったけど(笑)。

同級生の男子などに恋心を抱いても、打ち明けるわけにはいかない。悶々とした思春期の心の拠り所といえば、中学3年のときに両親に9600円で買ってもらったポータブルプレーヤーで聴く、モーツアルト、ベートーベン、ショパンの音楽でしたね。その後、学校を卒業して最初に就職したのは、20歳のときのこと。名古屋の会社でした。実家を離れるという念願を果たしたわけですから、もっと解放感に包まれてもおかしくなかったんだろうけど、そのころの精神状態はかなり不安定。一種のウツ状態に陥っていたんですよね。原因は、やっぱりセクシュアリティ絡みの葛藤だと思います。どうせホモなんだから、この先生きていくことに希望など無い。むしろ、とことん自分を虐めてやろうと思って意に添わない会社を選びました。働くことだけに専念することで自分と向き合わずにすむんじゃないかって。そんな投げやりの気持ちで選んだ会社、うまく続くわけないですよね。

十代の終わりにたまたま入った隣町の古本屋で雑誌『薔薇族』を見つけて、心臓が飛び出るような衝撃を受けたんです。『薔薇族』の存在自体はなんとなく知ってはいたけど、実物を目の当たりにして、「恐ろしい」とさえ思った。ページを繰る手が震えました。自分の本質を直撃されて、罪の意識に押し潰されそうでした。でも鼻血も出そうでした。もっとゆっくり見たかった(笑)。

その後、名古屋の会社を辞めて京都の夜間大学に入りなおしました。もう一度仕切り直して、新しく出直そうと思ったんです。昼間は法律事務所で働いて、夜は哲学を学びはじめました。学費を稼ぎながらの学業はそれなりに大変でしたけど、学生生活は楽しかったな。初めて自分で選んだ道を歩んでいるという充実感がありましたね。

とはいえ、この時期はまだゲイデビューを果たす前だから、メンタリティーとしては以前と同じでピューリタン的な生活を送っていました。大学卒業後に入社した企業では営業部に配属されて、ひたすら仕事漬けの日々。毎晩疲れて家に帰るばかりで、たまに名作映画を観に行ったりして慰められる、という生活でしたね。当時のぼくは、まだどこか自暴自棄な部分を引きずっていたんだと思います。まだノンケの友人しかいなかったですし、心底寂しかったんですよね。具体的な未来像を描けず、でも生活していかなくてはいけない。そんなフラついた自分をいじめてやりたい意識もあって、仕事に邁進していたような気がします。せっかく大学に入り直したのに、いざ就職となったらたいして興味もなかった営業職の荒波に自分を投げこんでしまいました。以前の繰り返しです。アホです。

その会社に入ったのは、法律事務所の仕事に追われて卒業間近なのにろくに就職活動もしていないぼくを見かねて周囲が世話してくれた、という経緯がありました。せっかく紹介してもらったんだからと後に退けなくなったこともあって、必死にがんばりましたね。おかげで営業成績はかなりよく、若手のホープでしたよ。でもね営業の仕事は、天井がないんです。次から次にノルマがある。同年代の連中は結婚して子供ができて、働くのも「誰かのために」となるのに、自分の場合はどれだけ成績を上げても、誰も喜んでくれるひともいない。おまけに気に入ってもらえたお客さんに「私は結婚していないような人間は信用できません」と言われたときのショックといったら……。

・文通欄、伝言ダイヤル

転機が訪れたのは、27歳のとき。ある日のこと、頭で考えたんじゃなくて、それこそ「身体が求めている」感じで、吸い寄せられるように京都にある古本屋へ向かったんです。季節は初夏だったかな。まとわりつくような暑い日だったことを覚えています。当時の主流のゲイ雑誌の、『アドン』と『薔薇族』と『さぶ』を買いました。逃げるように部屋に戻ったぼくは生まれてはじめてといっていいほどの充足感を味わいました。長年の渇きを癒そうと、貪るように読みふけりましたね。

いわゆる「文通欄」の利用も、最初は怖いと思っていました。はじめて手紙を出したときなんか、何度も下書きをして、便せん5枚以上の文章をしたためたりして。生い立ちからなにから、それこそびっしりと。その「重さ」が敬遠されたのか、5通出してようやく1通が返ってくればいいほう、という感じでした。当たり前ですよね。暗すぎますよね。あげくに、『アドン』の編集部に電話して「こういうものなんですか?」と聞いたことさえありましたもん。で、親切に「そういうこともありますよ」と慰めてもらったりして(笑)。そうこうするうちに、当時流行っていた「伝言ダイヤル」にもお世話になったりして、なんとかほかのゲイと出会えるところまでこぎつけました。とはいうものの、関係はいつも自然消滅パターンばかり。せっかく新しいひとと知り合っても「どうせ今回も、すぐ終わっちゃうんだろうな……」と、どこか及び腰になっていました。

そんなぼくにも、ようやく「これが恋なんだ!」と実感できる日がやってきたんです。彼と出会った当初、ぱっと見そんなに好みのタイプじゃなかったことから、いつものパターンで「2、3回寝ればいいかな」くらいにしか思っていませんでした。でも、音楽や小説の趣味が合ったりしたおかげでそれなりに話も弾んだし、先方はこっちを気に入ってくれたようで、電話もまめにしてくれる。そうしたやり取りを通じて、ぼくに「こいつは、自分のことを大事に思ってくれているんだ」と、はじめて実感させてくれたんです。感動的でしたね。彼の素晴らしいところは、思いをきちんと言葉にして伝えてくれたこと。おかげで「これも恋じゃないんだ……」なんて疑心暗鬼に陥らずにすみました。そうするとぼくも、次第に彼に惹かれていったんです。彼と時間を共有するたびに、臆病で頑なだったぼくの心が、ゆっくりと解きほぐされていくのを感じました。もう、一人きりじゃないんです。

プライベートが充実したおかげで、仕事にもプラスの影響が出たんです。まず、仕事に対しての虚しさが消えました。それまでと違って、お金を稼ぐのは「大切なひとのため」になった。希望を持つことが出来た。働く意味づけ自体が、ドラスティックに変化したんですよね。やがて、恋人との関係から得られた自己肯定感は、ぼくに次のステップへ進む勇気をもたらしてくれた。転職を志して、京都から東京へ移住したんです。例の彼とつきあいはじめてから、2年後のことでした。彼が先に東京の会社に就職したんです。遠距離恋愛で済ませたくなかった。ゴールなんてない営業職にいいかげん疲れていたということもあったけど、そのときはただ彼とずっと一緒に生きていきたい、その思いだけでしたね。

・奇人変人ベスト3

ゲイとしての自己肯定感を得て転職を志したわけですが、新しい職場を選ぶにあたっては、とくに自分のセクシュアリティは影響していないと思います。もともと化学という分野に明るかったこともあって、環境分析を手がける、約200名の職員を擁する企業に就職したんですね。現在所属しているのは10名ほどの部署で、ぼくの肩書きは主任。部下が5人ばかりいます。

京都で営業やってたころに比べたら、いろんな意味で楽になりましたね。なんといってもありがたいのは、職場がプライベートにあまり介入してこない点。せっかくの休日に、運動会や花見といった会社の行事になかば強制的に駆りだされることもありませんしね。せいぜい忘年会があるぐらいでしょうか。結婚圧力の類も、いまの職場ではあまり感じませんね。

ぼくの場合、派閥に属さなかったり物怖じせずに意見を言ったりすることから、社内で「奇人変人ベスト3」に入っています。(笑)、結婚していないことも含めて「あのひとは変わり者だから」と、それなりに受け入れられているんじゃないかな。職場でカミングアウトはしていませんけど、40過ぎて独り身だし、「ゲイ疑惑」は一部で囁かれていると思いますよ。以前、ぼくがちょっと好きな30代の男の子から「ゲイだと言ってる人もいますよ」なんて教えてもらったことがあります。

その男の子というのがちょっと変わっていて、妙にぼくと話が合うんですよね。ふたりとも中上健次やジャニス・ジョプリンが好きだったり、民族問題などの話題で熱くなったりとか、マイノリティーに対して彼は寛容なんです。彼にいちばん感心したのは、決して「ホモ」と言わないところ。フレディ・マーキュリーの話をしたときも、「彼はゲイだったんですよね」という言い方をしていました。とはいえ、最近彼女ができたって言ってるし、その子はゲイではないんじゃないかな。ちょっとショック。(笑)

そうそう、いまのぼくには、職場で心掛けている三つの事があるんですよ。まず、「できるだけ嘘はつかない」こと。同年代の同僚が家庭の話なんかをすると、昔の自分なら架空の恋人をでっち上げたりして対応していたかもしれない。でもいまのぼくは、沈黙してその場をすっと避ける。もうひとつは、「自己嫌悪に陥らない」。いままでのぼくの経緯を振り返ってもロクな結果を生んでいないし。そんなときは、プールで泳ぐに限る。最後は、ノンケ中心の会社の中をひとり漂いつつ生きている自分を「俺ってカッコイイ、ヒーローみたい」と思うようにしている事ですね。ヒーローは孤独でしょ。

20代の営業時代は、「ノンケに負けたくない!」という意識が仕事の原動力になっていた部分もありましたけど、いまのぼくにはそうした肩肘を張った感覚はあまりないですね。昇格試験に誘われても2年続けて断っているくらいで、出世もそんなに望んではいません。現在の職場では、ゲイバッシングへの危機感もほとんどありませんね。もし実際にそういう事態に直面したら怒りがこみ上げてくるだろうけど、持続して闘う気はとくにないというか、文句の一つや二つ言って、サッと辞めちゃうでしょうね。心安らかな毎日を送る事のほうが、いまのぼくには大切ですもん。

・ノンケはノンケの十字架を背負う

二丁目の伝説的なバー「クロノス」のクロさんが存命中、彼から忘れられない言葉を聞いたことがあります。「ゲイがゲイという十字架を背負っているならノンケはノンケという名の十字架を背負っているのよ」って。そうですよね。背負っているものの中身が違うだけですよね。たとえば、ウチの会社の男性社員を見ていても、「こんなに生活の活動範囲が狭いのか」と驚きますね。ウチの会社でも妻子がいる人の小遣いは昼食代込みで5万円もあれば上等ですよ。これじゃ、煙草や雑誌を買って月に2〜3回飲みに行くだけで消えちゃうんじゃないかな。映画も観られなきゃ、CDも満足に買えない。また余暇の暮らし方もゲイに比べてみんな一様なんですよね。ウチの若い社員の話題は、パチンコとスポーツだけですよ。

ぼくの小遣いですか、月8万円です。ただ、家族や家のためにほとんど働かされていると見えるノンケの生き様が、美しいと思える事があります。そのときは、40過ぎて好き勝手をやってる自分がつくづく強欲に感じられますね。老後のための貯蓄といえば、会社でやっている積立や、郵便局の簡易保険くらいかな。入院したら1日につきいくらか貰え、満期になると、掛けた金額より多少減った額が戻ってくる、というやつです。実質的に家族はいないから、生命保険は必要なくて、念頭にあるのは自分が病気になったときのことだけですね。今後転職の可能性もゼロとはいえないし、生活の場所も変わるかもしれない。だから、マンションなどの不動産の購入は当面考えていません。パートナーがいたら具体的な将来設計も浮かぶんでしょうけど、現時点ではシングルですしね。2DKの公団で、充分満足しています。

現在パートナー募集中です(笑)。働いて自立していることが前提ですね。年下、やんちゃで生意気な寂しがり屋がいいな。年上にも物怖じせず、忌憚のない意見を言ってくれるタイプがいい。時々甘えさせて欲しいっす。「メシ一緒に食いたい」「手を握りたい」みたいな欲求があるんですよね。シングル期間が長くなっているんで、ちょっと人恋しくなっちゃっているのかもしれません。あっ、いまウチの隣の部屋空いてますよ。

いい伴侶が見つからずに定年を迎えてしまったら、老後は友達との関係を密にしたいですね。緊急入院をするようなことになった場合は、古くからのゲイ友や元彼に連絡しますね。ぼくのプライベートで過ごす仲間はほとんどがゲイですね。ゲイ同士だからこそ共有できる雰囲気に、強い愛着を感じます。健気に生きているゲイに自然な愛おしさを持ちます。恋愛だけじゃなくて友愛って、年齢とともに大事だと思います。

そういえばぼく、20年くらい前に占いをやって「あなたは水の近くで生きていけばいい」と言われたことがありましたっけ。考えたら、いま住んでいるところは近くに荒川が流れていますし、京都時代も賀茂川から数十メートルの所に職場がありましたし、営業では水に関する薬品を扱っていたんです。プール通いや沖縄が好きなところも、それから現在の仕事も主に水質分析の仕事です。ぼくは根っから「水」と縁があるんでしょうね。流されやすい性格も含めて。大好きな「水」の近くで、パートナーや、気の合うゲイの仲間たちと暮らす。それがぼくにとっての将来の理想でしょうか。(笑)でも、どんな状況であっても、その時の自分をまるごと受け入れてやりたいですね。それが第一です。