2007-06-26

QJw「会社で生き残る!」その5

vol.2.jpgメガバンク●42歳
オカマはノンケの2倍働く必要がある

[名前]西本潔
[居住地]東京
[業種]メガバンク
[職種]事務管理

・デビューしてすぐサセコになる

勤務しているのは、某メガバンクです。入行してちょうど20年弱といったところですね。支店での融資などの経験を経て、本部の商品開発等に関わり、現在は事務管理部門に所属しています。エリートかどうかですか? うーん、中の上という感じですか(笑)。同期入社の連中と比較して、昇進が遅れたときなどは、心が乱れ、ひどく悔しい思いをした時期もありましたが、現在は、気持ちに折り合いをつけるすべを身につけ、適当にやり過ごしています。出世するためにこれから費やすエネルギーと、その見返りとしてのサラリーアップを比較した場合、「もうしんどいことは嫌。いまのままで十分満足」というのが本音かな。

ゲイ歴ですか……中学のころに『薔薇族』と出会い、高校時代は『アドン』や『さぶ』を貪るように読んでいましたから、思春期のころには既に、同性に惹かれる自分に気づいてはいたんです。でも、実際に男を抱いたのは就職後、20代なかばのことで、学生時代は女性と付き合っていました。当時は時代も時代でしたから、「ホモを治さなくちゃいけない」という強迫観念もありましたし。女体は見たくもなければ触りたくもないけど、元々タチだったことと、性欲が強すぎて困っていたことなどから、とりあえずチンチンは勃つから挿れてみたらなんとかなった、という感じでしょうか(笑)。性欲が強かったぶん、実際に男とやってしまうと後戻りができなくなりそう、という意識もあったんだと思います。その昔一世を風靡した「ドクトル・チエコの身の上相談室」に載っていた「同性に興味を持つのは単なる青春時代の過ちで、誰にでもあること」なんて回答を信じこんでいた、バカな大学生でした(笑)。

大学時代は大阪で過ごしたんですけど、堂山のような場所には怖くてなかなか足が向きませんでしたね。自分の中では、人目を忍んでゲイ雑誌を買って、それをオカズにオナニーに耽るところまでは、ぎりぎりOKという感じ(笑)。学生時代に付き合っていた女性ともちゃんとセックスはできたから、ひとまず自分の本質から目を背けていられたようです。大学が経済学部だったこともあって、卒業後の就職先には銀行を選びました。就職活動では、やはり大学の先輩後輩のラインがものを言いますから。

銀行では支店のことを「営業店」と言い、本店を「本部」と呼びます。新人は最初に2年ほど営業店へ配属されるシステムになっており、そこで銀行の業務をひととおり習得してから身の振り方が決まることになっています。ぼくが最初に配置されたのは営業店の窓口の預金係で、その後取引先相手の営業にまわされました。波はありましたが、だいたい朝の7時過ぎに職場入りして、終わるのは夜の10時や11時過ぎでしたね。バブル期の貸し出しがきつい時期なんて、朝7時に入って帰るのは翌日の午前1時、2時という時代もありました。ひたすら仕事に追われる毎日でしたが、元々体力はあるほうなので、現在にいたるまで病気で休んだことはほとんどありません。

入ったばかりの新人たちを前に、支店長は「みんな、頭取を目指しなさい!」と訓示を垂れるんです。煽るだけ煽って支店でがんばらせて、脱落した者は情け容赦なく間引いていく。復活のチャンスもなくはないものの、まれなケースですね。とにかく仕事がきついので、行員にモチベーションをもたせるために、上層部がおだてまくるんです。裏では、いっせいにスタートを切って必死に走っている連中のうちの誰が中央競馬向けか、地方競馬で一生を終えるのか、識別はついているんですけどね。脱落する者がそれなりの数出ることを承知の上で発破をかけまくるんですから、ある意味銀行というのはいやらしいやり方をするところだな、と思わないでもありません。ぼくも「はじめてのレースに有頂天になって、必死にゴールを目指していた」うちの一頭でした。早朝から深夜まで続く連日の激務に、ときに同期の連中と弱音を吐きあったりしながらも、仕事を覚える楽しさに邁進していた時期ですね。

皮肉なもので、ぼくが「男を覚えた」のは、その新人時代の多忙な時期のことでした。ゲイ雑誌から得た情報で、大阪梅田にあったハッテン場の映画館へ行ったんです。誘いをかけてくれたのは50代〜60代くらいの初老の男性で、映画館を出るなりホテルへ直行しました。生まれてはじめて他人の勃起したチンチンに触って「ああ、男ってこういうものなのか……!」と、素朴な嬉しさがこみ上げてきたのを覚えています。

ホテルのあとに、相手の男性が堂山の飲み屋へ連れていってくれたんですが、そこはどうやら老け専のお店だったようですね。平均年齢は40代〜60代といった感じで、なぜかぼくはお金をとられずに、「またいらっしゃい」と愛想よくしてもらって。その後もひとりで行ってみると、その店では必ずおごってもらえるんですよ。若かったので、それだけで年上のひとがごちそうしてくれたんですね。現在のぼくはどちらかというと若い男のほうが好きですけど、当時は自分の好みのタイプがわからなかったことなどから、おじさんたちにちやほやされて「あ、こんないいことがあるんだ!」と有頂天になっていました。結局、デビューしてすぐに「サセコ」と呼ばれていました(笑)。でも気にしてませんでしたけどね。

堂山まで歩いて10分かからないような場所に勤め先があったのにもかかわらず、毎晩のようにその手の店に通っていました。東京で言ったら、伊勢丹に勤務して二丁目へ毎晩赴くような感じでしょうか。自分なりに細心の注意を払っていたつもりではありますが、いまから考えたらワキが甘いというか、無謀な日々を送っていましたね。

・主流から外れて東京へ

やがて修行期間も終わり、東京への転勤を命じる辞令が出ました。この異動は、いわば「飛ばされた」んですね。ぼくは我が強いほうだったので、支店長の言うことは聞かないし、仕事さえきちんとやっていればいいだろうと休日を返上した行事などには絶対に参加しませんでしたから、協調性を重んじる銀行の体質からすると、生意気に映ったんじゃないでしょうか。最近はそうでもありませんけど、かつての銀行はチームワークが最優先でしたから。その後個人主義を重視する風潮が進んでその手の行事は消えていきましたが、当時は休日を返上したソフトボールやバレーボール、水泳大会の懇親会などの活動は、行員の連帯感を醸成するためには不可欠とされていましたし。

東京へ転属された時点で、自分は主流から外されたんだという自覚はありました。事実、新しい職場にはそれこそ『ビー・バップ・ハイスクール』みたいな落ちこぼれがいっぱいいるわけですよ(笑)。たとえば、初日に4、5人の先輩と歓迎会という名目で飲みに行ったときに、先輩にいきなり「おまえ、いったいなにやったんだよ?」と訊かれまして。その先輩は、「おれは支店長を殴りそうになって、副支店長に取り押さえられたんだ。で、飛ばされたってわけ」なんて「武勇伝」を披露してくれました。ほかにも、以前配属されていた営業店の支店長がどうしても気に食わなくて、先方はやる気満々だったのに、あえて結婚式の仲人を大学時代のゼミの教授に頼んだという先輩もいました。なんでも、式のあとの新婚旅行中に、日本からの電話を取った奥さんに「あんた、転勤よ」と告げられたんだとか。つまり、仲人の件を根に持たれてあっさり飛ばされちゃったんですね。

出世コースから外れて一抹の寂しさを感じる反面、これで親などの周囲の期待から解放されるという安心感も、多少は覚えましたね。これでマイペースに生きていけると、かえって腹を括れたのか、二丁目にも毎晩のように通いつめるようになりました。ぼくは昔から宝塚が大好きで、っていかにもなオカマ趣味ですけど(笑)、高校時代に舞台を観て以来、すっかり夢中になったんです。二丁目では、宝塚ファンが集まるお店を見つけたりして、自分のいるべき場所をようやく得たという感じでした。

とはいえ、それはあくまでも仕事を離れた時間の話です。いまと違ってかつては、単身者は基本的に独身寮へ入るきまりになっていたんですが、この寮というのが原則二人部屋でプライバシーも守られないし門限もあるしで、心底がっくりきてしまいました。当時は結婚しない限り寮を出られなかったため、30代後半や40代、なかにはもうちょっとで50代という古株まで、ひとつ屋根の下で額を突きあわせていたんです。寮生は全員で100人くらいかな。現在はコストの関係で、30代のなかばあたりをリミットに寮を出なければならないそうですが。

同僚の目から自由になれない環境は非常につらいものがありましたね。とりわけぼくみたいな、男がいないと生きていけない「サセコ」なオカマとしては(笑)。なにせ寮の門限は午後11時で、それまでに帰らないと人事に届出がいって、無断外泊の常連となったら「私生活が乱れている」と上層部に目をつけられてしまうんですから。そのうえ、みんなが出社したあとに寮の管理人の親父が火の元の点検という名目で鍵を開けて全室を見てまわる慣習があったので、心理的には留守のあいだに持ち物検査をされているような気分になりましたし。まあ、銀行は金を扱う商売ですから、ある程度の規律の厳しさは仕方のないことだとは思いますけど。

けっきょくこの独身寮には、10年以上いましたね。でも実際に暮らしてしまうと門限なんてどこ吹く風で、手下も同然な後輩に札をひっくり返させたりして、監視の目をかいくぐっていました。週に4、5回は、深夜に仕事が終わるなり会社の前からタクシーを飛ばして二丁目へ直行して、なじみの店に入り浸る生活を送っていましたね。そのまま朝までサウナなどで過ごして、職場へ直行する日々でした。平均睡眠時間は4時間程度、そんな生活を、寮を出てひとり暮らしをはじめてからも40歳近くまで続けていましたから、本当によく身体が持ったものだと思います。きっと、自分なりに充実した毎日だったからこそ、あんなふうに過ごせたのかもしれませんね。

・独身寮にゲイ雑誌を溜める

寮住まいだった時期のオカマならではの思い出というと、ゲイ雑誌の隠し場所に困ったことかな。二人部屋の中央にはいちおう衝立が置かれていたんですが、プライバシーは万全ではありませんでしたから、その手の雑誌は机の奥やベッドの下などに隠匿していました。苦労して隠していたわりにやばい品ばかり買いあさっていて、最終的に独身寮を出たときには、『薔薇族』『さぶ』『アドン』が段ボール箱5箱分くらい溜まっていました(笑)。

独身寮を出ようと決意したのは、30代なかばのことです。寮の規則で、ベテランと新人が組まされる形で二人部屋に暮らしていたんですが、あるとき食堂で、たまたま新人たちの会話が耳に入ってきたことがありまして。「嫌んなっちゃうよ、うちの先輩、説教ばっかりしやがって」「おまえんとこなんかまだいいだろ、おれの相手なんて10歳以上も年上だぜ!」なんて具合に。なんの気なしにその声の主を見たら、ぼくの同室者(笑)。これでガックリきたというのもありますけど、年齢的にも区切りの歳かなということで、二丁目のオカマネットワークのつてをたどって、マンションを購入することにしたんです。

かつては不動産を購入するのにもいちいち支店長の許可が必要だったそうですが、ぼくがローンを組んだころには、だいぶ規則も緩くなっていましたね。なにせ銀行ですから、「あぶく銭を使ってしまうよりも借金を背負え」というスタンスなんです。ローンを組んで会社から資金を借りると利息も安くてすむし、会社も得をする、と。このあたりのメリットは、銀行ならではと言えるのかもしれません。

そのとき購入したマンションにパートナーと現在同居しているのですが、彼と出会ったのは99年のことです。それまでの関係は行きずりばかりで、同じ相手とは3回以上セックスしない感じでした。いまの彼とも、最初から「運命の相手」と思っていたわけではないんですが、ぼくにとってははじめてきちんと付き合った相手でもありますし、一生添い遂げられたら、と思っています。考えてみたら、30代のなかばで急に「自分の城」がほしいと不動産購入に踏み切ったのも、いろんな意味で身を落ち着けたいという願望の表れだったのかもしれませんね。事実、その後こうしていっしょに住みたいと思える相手ともめぐり会えたわけですから。

経済的な話をすると、年収は1千万を超えるくらい程度で、オカマの二人暮らしには十分です。保険の類は掛けていません。病気になったとしても、入院給付金はせいぜい1日1万から1万5千円で90日、とかでしょう。実際には、それだけの期間入院するとなったら、ある意味最悪の事態を予想せざるを得ませんから、わざわざ保険に入ろうとは思えないんです。500万あればなんとかなるだろうと、その程度の額の貯蓄は常にキープするようにしています。

そういえば、両親に見合いを勧められた時期もありましたね。でも、わざと相手の女性に嫌われるように仕向けていました。たとえば、よその女の子をじっと眺めたり、相手の前で屁をこいちゃったりとか(笑)。現在のぼくは「オカマは結婚しちゃいけない」と思っています。ほかに兄弟がいることもあって、いまでは両親もぼくのことは諦めてくれているようです。部屋に『薔薇族』を隠していたのを高校時代に見られたことがありますから、親も内心では息子の性的本質に気づいているんじゃないかな。

・ソープ1回で大番20回分

銀行という業界は基本的に体育会系なので、ひと昔前までは、連れ立って風俗に行くような風潮もありましたね。ぼくも20代のころなんかは、同期の連中と吉原のソープなどへ行っていましたし。当時は「こういう連帯感も大事なのかな」と、自分なりに努力していたんです。なんにもせずに通すと、あとでお店の女の子から同僚に話が伝わるかもしれないと危惧して、必死にがんばって3回したこともあります(笑)。「ソープなんて1回行けば3万円、『大番』なら20回は行けるのに……」と、内心割り切れないものを抱えつつ。

風俗といえば、クリントンが大統領に再選された年だったと記憶しているので、もう10年くらい昔の話になりますが、ニューヨークに外国銀行の実務実態調査出張に行ったことがありまして。そのとき仲のいい遊び人の後輩に誘われて、地元のコリアン・ソープバーに連れて行かれたんですよ。「水中花」のころの松坂慶子みたいなゴージャス極まりないお姉さんばかりがいる店に。ぼくの相手は、ミス・韓国かチェ・ジウかという美女。でも、そんな彼女にオチンチンしゃぶってもらってもぜんぜん勃たない。そのときはっきりわかりましたね、こりゃもう女は無理だわ、と。あのあたりから、いろんなものが吹っ切れていったのかもしれないな。

大声で吹聴するわけではないものの、上司や同じプロジェクトチームの同僚などには、ぼくのセクシュアリティは知られています。にもかかわらず、ゲイバッシング的なものを職場で感じたことは、ほとんどありませんね。大手の企業はいまどこもそうでしょうが、セクハラなどに関するコンプライアンスがしっかりしていますから。40過ぎの中年の性生活にまで興味をもつほど、会社は暇ではなく、周囲の連中から特に何も言われることはないし。また幸運なことに、「下半身事情を口にするのは民度が低い」と考える社風もあり、最近の職場環境には感謝しています。

特に銀行の場合、不祥事が続発したりして業界全体のイメージが悪化して以来、従業員を確保するためにも「個性を尊重しましょう」という方針に変わってきましたしね。もっと露骨に言うと、従業員の個人的な問題を気にかけているだけの余裕が、いまの銀行にはないんです。バブル崩壊以降のこの十数年間は、目に見えてそうした傾向が進みました。職場での結婚圧力が薄れていったのも、ちょうどそのころからですし。

ゲイに対する許容度や結婚圧力に限らず、銀行の体質はここ十数年で、大きく変わりつつあります。たとえば組織内の「派閥」なども、以前に比べたらないも同然ですから。派閥のような仲よしサークル的なシステムは、あくまでも余裕のある時代の産物ですしね。そういう意味でもバブル崩壊は、銀行業界にとってもぼく自身にとっても、歓迎すべき事態だったと思っています。

・人事の個人データに「オカマ」?

女性差別的な体質はまだ残っていないこともありませんが、ゲイをはじめとしたマイノリティ、つまり非主流派的な生き方をする者にとって、昨今の銀行業界はそれほど居心地の悪い場所ではないでしょうね。これは個人的な観測ですけど、20人にひとりくらいはオカマがいても不思議はない気がします。実際、職場にいい男でソレっぽいのもいて、旅行でチンチン咥えたりして、いままでに3人ばかり「食った」りしていますし(笑)。全面的にカミングアウトしているわけではないとはいえ、裏の情報網ではとっくにぼくのセクシュアリティは知れ渡っているでしょうね。人事の個人データの備考欄に、「オカマ」と記載されていたりして(笑)。

金融業界を目指す若い世代のゲイに伝えたいことがあるとすれば、「自分がマイノリティであることを言い訳にしてほしくない」ということですね。望みどおりに出世ができないことを、自分がオカマだからとか独身だからといった理由に求めるのは、卑怯だと思うんです。ゲイプライドがどうのマイノリティとしてのアイデンティティがどうのといった小理屈は、ノンケが妻子を守るために費やすエネルギーの前では、なんの説得力もないんですから。本当に、ノンケが家族のために振り絞るパワーには計り知れないものがあって、それはある意味、生物としての人間の本能に根ざしているのかもしれない。オカマとしてそれなりに尊敬されたいと思ったら、昔のキャリアウーマンじゃないけど、仕事ではノンケの1・5倍から5倍は働く必要がある。そのくらいの気概がないと、どのような業界でもやっていけないのではないでしょうか。

現在の自分には、かけがえのない三本柱があります。二丁目などのゲイコミュニティへの帰属感と、同居人、そして仕事。この三つがないと生きていけませんね。セクシュアルマイノリティのコミュニティへの愛着は言うまでもありませんし、いまの恋人には一生そばにいてほしい。それと、やはりサラリーマンですから、仕事から得られる自己肯定感にはかなりの重みがあります。出世うんぬん以前に、純粋に仕事が楽しいんですね。この三本柱は、どれも「自分の存在意義を認めてくれる存在」という意味で、ぼくの人生には欠かせないものだと思っています。