2007-10-30

QJ座談会「アザ」と「ハゲ」の政治学 後編

ganmen.jpg外見と自己肯定感

伏見 もともとの自分の顔、「アザ」の存在を肯定的に受け止められている、それが好きだという感覚があるとしたら、逆に、メイクすることも楽しめるということはありませんか?
石井 女性特有の傾向ではないでしょうか、メイクアップを楽しむことができるということは。
伏見 それは文化の問題だと?
石井 それはありますね。男文化を生きてきた僕ではそれは難しいですね。
hage.jpg伏見 今回、僕の友達のドラァグクィーンの男の子と、石井さんで立場を交換してもらうという企画も最初考えました。ドラァグクィーンの子には素顔に「アザ」をつけてもらい、石井さんには一日女装で過ごしていただいて、そのうえで座談会をしてもらったらどうかなと。偽物、見せ物になることを楽しむドラァグクィーンと、メイクをすることで、偽物、見せ物になることの屈辱感を感じる人たちでは、いったい何が違うのか。顔に象徴的な印が存在しているという意味では同じなのに、片方はそれを見られることを喜びと感じ、もう片方はそれを屈辱と感じる。そのコントラストから見えてくる地点もあるのではないかと思いました。

須長 自分の外見や、お互いのイメージとの距離を楽しむことができるというのは、それを楽しめる位置にある人の特権だと思います。
伏見 もちろんそう思います。例えば、僕が「アザ」をつけて一日過してくださいと言われたら、全然痛みは感じないと思う。かえって見る人のほうの反応を楽しめちゃうと思うわけ。だけど本当に「アザ」があることに痛みを感じている人が、それを見られたときというのは、当然違うと思います。
須長 髪のある人がカツラをかぶって街を歩くのはイヤじゃないけど、髪が本当に薄くなったときに、カツラをする勇気があるのかどうか。
石井 伏見さんみたいな玄人(笑)はいつも見られてることに腹をくくって生きている。しかし、素人さんにそれができるかというと、できないと思う。
伏見 うーん、玄人、素人という分け方じゃなくて、セルフイメージをどう受け止めてるかということだと思うんですよ。根っこにある自己肯定感の問題。それさえあれば、意匠に関しては着せ替え人形ごっこを楽しめるような感覚って出てくると思うんですよ。女装をすることも、あるいは「アザ」をつけることも、それをある種の表現行為として楽しむことができる。ただ、外見がその人の本質に結びついているみたいな感覚が濃厚だと、自分を遊べないでしょうね。
石井 キツイでしょうね。アザがある違和感を少しでも知ってもらうために、普通の顔をした人に対して、「一生アザがついてて、入れ墨を顔にいれて生きていけますか」みたいなことを、僕は意地悪に冗談ぽく相手に言いますが、もちろん誰もそんなことできませんよね。そういうことで、少しでも僕の生きてる姿、ビジュアルとしてのありようを想像してほしいと思うだけです。
伏見 「有徴性」という言葉を用いると、僕は子供の頃、女ぽくって仕草が本当にゲイゲイカマカマした感じの男の子だったんです。そういう意味では外側に顕れるもの、有徴性があったんですよ。そういうしぐさや歩き方、しゃべり方を、周囲から常に攻撃されいじめられて(「アザ」と一緒ですね)そのことは子供の頃の僕のトラウマになっていました。ですから、いつもそうした女性的な存在として見られないように気にしながら過していた。ところがそれを気にすれば気にするほど、女性的かどうかということに自分が囚われてしまう。逆説的なんですが、女性的でなくあろうとすればするほど、女性的になってしまうんです。それが大人になって、そうした自分自身というものを受け入れられ、自己肯定的になってくると、今度はいろんな自分を使い分けることを楽しめるようになったんですね。コンプレックスに引っぱられないで、べったらオネエからオラオラ系まで自由に、機会に応じて演じ分けられるようになった。だから、いまの僕にとってジェンダー表現というのは「着ぐるみゲーム」でしかない。
 それをそのまま他の人に当てはめられるとも思いませんが、「アザ」のある人でも、あるいは頭の薄い人でも、そのこと自体を受け入れ、肯定し、面白がれるような状況になってくると、べつの捉え方ができるようになってこないでしょうか。まぁ、それには、個人の内面ばかりでなく、社会的な条件が整わなければいけませんから、やっぱりそこまで行くのが苦しいとは思います。
石井 苦しいでしょうね。ただ、伏見さんのいう「自己肯定感」と、僕のように生まれながら顔にアザのある人間の「自己肯定感」とは、その質がかなり違うと思う。僕は「自己肯定感」だけではなく「自己嫌悪感」も人間の成長に必要なファクターだと思っています。とくに身体に先天的に何かをもってしまった人間が自己肯定に至る道のりは険しい。その険しい体験をした人が自分のイメージで遊ぶのは一筋縄ではいかないのではないでしょうか。「着ぐるみ」といっても、伏見さんのいう「着ぐるみ」の中身は、「普通の顔と肉体」の持ち主ではないかと感じないではいられないのです。顔にへばりついた強固なイメージを消し去るほどの、新しいイメージをどう構築するか。考えなければならないことは多いです。
須長 「ハゲ」に関しては、そういう面はないことはないと思いますよ。例えば「光頭会」なんてそんな雰囲気がありますし。「つい自慢 したくなるよな 良いカツラ」という川柳が何年か前に毎日新聞に投稿されてたんですけれど、これなんて、「ハゲ」文化の成熟と、それでもなかなかうまくいかない現実を絶妙に表現していて、大好きなんですけれど。

「ハゲ」や「アザ」はモテないか

伏見 「ハゲ」の人はモテない、という見方は一般的ですが、「アザ」の人もモテないのでしょうか。
石井 モテないですね。異性関係がうまくいかない、恋人ができない人も多いと思います。「思います」と言うのは、それをまだきちんと語れるような関係性が僕の周囲とできていないからです。僕の周りに集まってくる「アザ」をもった人たちとは、就職差別とか社会的な問題は話せますけど、プライベートな問題を語る関係ははじまったばかりです。
伏見 石井さん自身、そんなにお顔が美しくて、身体だってカッコいいのに、モテなかったんですか(笑)。
石井 まず寄ってくる女の数が限定されます。僕が寄っていくこと自体も、ためらうことが多かったですね。ハンサムだと人に言われても、信じられなかった。
伏見 でも寄ってくる人はいたんでしょう。
石井 しつこいな…(笑)…いましたよ。
伏見 「アザ」があるから寄ってくる女性が少ないということがあったと思うんですか。
石井 アザが男性を選ぶ女性にとってフィルターになってるとは思いますよ。
須長 広い意味では「アザ」が原因かもしれませんけど、どうリアクションしていいかわからないとか、あるいは石井さんのことをカッコいいと思ってるけど、いつも怖そうな顔をしているから距離置こうとか、そういう理由もあったのではないでしょうか。ただ「アザ」が気持ち悪いとか、お化けみたいだから恋愛対象からはずすということではないんじゃないですか。
石井 女性に限らずたくさん人と出会っていけば面白い人と巡りあえるはず、とはずっと思っていて、フリーライター業を始めたのもそのためです。世界は広い。僕の顔を侮辱しない人間が大勢いるならどこでも行こうと夢見ていました。振返ってみると、中学、高校、大学など、日本の教育制度の枠で規定された社会は窮屈すぎる。顔にアザがあろうがなかろうが、あの閉鎖社会では絶望的な気分になると思います。
 大学を卒業して働きだして世の中にはいろんな人がいることがわかりました。だから、学生のように、多様な人間と出会って磨かれた美意識がない人たちは簡単に信じられません。
伏見 須長さんは研究の結果、「ハゲ」の人は、「ハゲ」だからモテないということはなかったのでしょうか。そういう言い方が神話になっていて、それを疑うという姿勢はわかりますが、現実問題としてはどうなんでしょう。
須長 実態的な調査ができないのでわからないのですが、印象として、あるいは私の経験的には、やはり大きなハンディだと思います。あるいは女の人と話してても、「ハゲ」が好きだという人は、いままで二人しかいませんでした。気にならないという人は多数派ですが、「ハゲ」だと恋愛にファンタジーが抱けないという人もいます。
やっぱり今の社会ほど、「ハゲ」イコール「格好悪い」みたいなイメージが固定していると、その影響は侮れないものはあると思いますよ。
伏見 マジョリティが「ハゲ」とか「アザ」のある人のことを、性的ファンタジーの対象にしづらいというのはあると思いますが、マニアという存在はいるんですよね。
石井 いやあ、僕はそういうマニアとはお付き合いしたくないですね(笑)。実際、アザを見て欲情する女と会ったことはないですよ。
伏見 それは差別的だわ(笑)。個人的なことを言うと、僕は痩せていたときよりも、いまのように太ってからのほうが、はるかに当たりがいいんですね。痩せてるときはただのブス、太ったらデブでしょう。ところが、デブということに対して、ファンタジーを持ってるゲイの人、「デブ専」というマニアがそれなりにいるわけですよ。そこに釣竿を垂らすとまさに大漁(笑)。ゲイの業界で「アザ専」があるかどうかわからないけど、僕の友達で「アザ」のある恋人と付き合っていて、彼はそのことが性的なファンタジーにおいては、全然マイナスではないと言ってました。いかにマイノリティとマニアが出会う機会を設けるかというのも、僕は重要なテーマだとも思うんです(笑)。
須長 知り合いで障害者同士で結婚してた人がいて、一方が「俺は健常者と付き合いたいんだよ」と言って別れたんですね。そのとき介護をしてる人たちは、差別的だと激怒したんですが、差別的なのはわかるんですけど、理解はできるんですよね。自分の頭が「ハゲ」てるから、「ハゲ」好きな女の人しかいなくなるというのは、それはそれですごいいやなんじゃないのかな。
伏見 でもそれは社会や周囲に多くを求め過ぎてるような気がする。「ハゲ」でも「デブ」でも、それが魅力に思える人と出会えればそれでいいじゃないですか。誰しも売りになるところなんてそう多くはないわけだから、一個でも売りになる部分があるんだったら、それで勝負をすればいい。と、謙虚に受け止めて、僕は出腹で勝負しているんですけど(笑)。一般受けをするということに、みんな幻想があり過ぎるんですよね。ヒットチャートだって、ナショナルチャートだけじゃなくてクラブチャートやブラックチャートとかいろいろあるわけで、軸が他にもあるということがわかれば、もっと人生が開けるのにと思ってしまうわけです。本質的に人と人が惹かれ合うというのは、マニアックな現象だと思うんですよね。他の大勢、それも魅力的な人たちの中から一人に魅せられ、その人を選び取ること自体、ふつうとは言えないと思いませんか。少なくとも入り口に関しては、セクシュアリティはそういった記号ゲームなんです。対象が男か女かというところから始まって。スタンダードのイメージをターゲットにする層が一番大きいかもしれないけど、マーケットは多数派の欲望だけで動いているわけではない。
石井 話としては面白いけど、僕の中でいまの伏見さんの話にリアリティを感じないんだよね。ただ、本も出て、メディアにも出ているので、ラヴレターを受け取る機会は増えましたけど。
伏見 それでまだ僕の話に実感がわかないのでしょうか。
石井 でも、なんていうのかな、そういう好意は僕自身に対するものなのだろうか。最近よく思うのですが、『顔面漂流記』が出てなかったら、俺ってただの「アザ」のある兄ちゃんではないかと。だから出版によって付加価値がついただけだと思います。いまでも、読者が目をキラキラさせて、尊敬の眼差しで近づいてくると、ヤバイ、と思ってしまうんですよ。

外見が重視される「場」とは?

伏見 外見というものが、なんでそんなに人の差別や好奇の目、攻撃などを誘発するのか。そのへんを須長さんは「ハゲ」というテーマで研究されてどう思われましたか。
須長 間違いなく外見は目印ですから、その人の態度などをある程度表明するわけだし、人間関係を取り結ぶツールでもある。私たちは外見を通じて、いろいろなことを解釈するわけです。そういう意味では外見が気になるのは、私に言わせれば当たり前の話なんですね。外見が気になって、外見が重要であれば、本人が自分の外見にすごく重みを置くのも自然な話だと思います。でもこれは一般的な考え方であって、そういう現実の中で生きていながら、他方では男は中身で勝負、あるいは実力で勝負みたいな風潮が││最近は減ったかもしれませんが││ままあって、外見を気にする行為が今度はマイナスの評価、マイナスのレッテルのように貼られる。その矛盾みたいな部分がいくつかの問題を複雑にしてるんじゃないかと思うんです。
伏見 女の人の場合、あまり公には言わないけれど、外見で勝負の文化じゃないですか。男は中身で勝負だと言われるけど、だんだんそれも変わってきてはいますよね。いまの男の子たちは、眉毛だって気にするし、見せるための筋肉をつけたりするからね。
須長 昔も中身の勝負じゃないんですよ。外見的に好ましくないというふうにされてる人は、中身勝負の段階に進めてもらえない。外見の段階でこぼされてしまって、実力を見てもらえない。
伏見 でも、相対的な比較では、女の人ほどには男は外見が重視されないんじゃないかな。
須長 外見が問われる領域が限定されるとは思います。男は外見的にあまりうまくなくても、男でよかったねという感じ方はありますよね。
伏見 でも男の人でも就職で差別されるとかもあるんですよね。石井さんは体験的によく理解されていると思うんですが。
石井 個人差はありますけど、「アザ」があることで就職が難しいのは事実です。「なんでおまえみたいなヘンな顔のやつを雇ったんだろうな、うちの社長は」と社内で言われた人もいます。履歴書が突き返されるのはザラです。顔写真を見て、不適格だと判断されるようです。単なるブスでは、履歴書が突き返されることはないのではないでしょうか。
伏見 外見が仕事の内容に関係がない場合には、もちろんそういう差別は撤廃すべきだし、絶対にあってはならないものだけど、サービス業とか、ある種外見がその仕事に価値を与えている仕事ってあるじゃないですか。それがいいか悪いかはともかく、そういうことに関しては、どう思いますか。
石井 それは僕もうなずくところはあります。たとえばミスユニバースやレースクィーンなら、明確な基準がある。背中に般若の刺青を彫ったあねさんが選ばれることはあり得ない。ただ、さっきおっしゃったサービス業という点でいうと、簡単に顔の整った人を優先というのは承服しがたい。容貌による採用差別が公然化すると、顔に「アザ」のある人の生活が脅かされます。実際に僕の友人に、「銀行の窓口業務は、おまえの顔じゃできない」と言われた人もいます。ただ、窓口業務で「おまえみたいな顔の人間は置けない」という人の言い分の背景は無視できない。目に見えない「顔のレベル」以下に位置づけられた人間は雇わないという価値観は、間違いなくあります。それを一〇〇%否定はできないし、肯定もできない。だから就職差別は語りにくい。単純にスパッと割り切れない。ただ、そのケースの場合、会社はもっと納得のできる言い方を彼にできなかったかという疑問は残ります。美をもって尊しとする職場、職業人の存在は認めますが、美を賛美する価値観を無批判に丸呑みして雇用調整をしてほしくはないですね。ブスや老人を労働から排除することにつながりかねない。
須長 「アザ」があったり、顔にデコボコが大きくあるといった人が窓口にいるほうが、むしろその会社の社会的な姿勢が見えてきて、イメージアップにつながるような部分もあるような気がするんですけどね。
石井 そうでしょうか? いまの日本では、イメージダウンになるのではないでしょうか。車椅子に乗っている人や視覚障害者は好意的にむかえられるかもしれない。機能障害という分かりやすさから逸脱したハンディキャップについて語ることはまだ難しいですね。
伏見 性的魅力みたいなものが、その業種にとってお金を生み出す要素になってる場合もありますよね。そういうときに、「アザ」や「ハゲ」だけの問題ではなくて、ブスで排除されたということを差別問題の文脈に入れることができるものか。
石井 そう。公認された差別││在日、部落、女性、障害者、そういう差別はわかりやすいですよね。おそらく伏見さんのやってらっしゃるゲイリブは、なかなか一般的な人にはわかりにくいと思うんです。それと外見による差別は似てるかもしれません。僕はスキンヘッドのお兄ちゃんが窓口業務をやってもいいと思うんだけど、現実には中年の女性が奥のほうで事務やって、若い女性ばかり前のほうに置かれる。それで好感度が増すというファンタジーがあるんですよね。
伏見 でも、それは誰がやっても同じなのかというのは自分のことを振り返るとかなり疑問で、僕は窓口で若いお姉ちゃんがいても全然関係ないんだけど、フェロモン系のいい男がいたら、やっぱりそこに通いつめちゃうかもしれない(笑)。マジョリティに受ける人がフロントに出ていることで利益が上がるということはないとは言えない。それは必ずしも資本主義の世の中で、ダメな選択だとは言い切れないのでは。
石井 飛行機に乗って、色っぽい仕種をするスチュワーデスが何人かいると、僕なんかずっと見てます。全身で色気をふりまき、セックスアピールしているスチュワーデスはいまでもいる。こっちは金を払って乗っている客なので、そのパフォーマンスを見て楽しむ権利はあると思います。航空会社として、そのパフォーマンスを推奨しているとは思いませんけれど。
 僕自身、顔についていろいろ発言していますが、ブスより美人のほうが視線は移りやすい。初対面で受ける好感度は美人の方が高い。古い女友達からは、ぼくは「面食い」と言われたこともあります。僕の内面にも美醜の価値観があって、美人を見て発情するわけです。それを否定する気はありません。そこまで僕は倫理的で道徳的な人間じゃない。しかし、ブスを侮辱しない、美を安易に全面的に賛美しない、という自制心も身についています。それは顔を考えていくプロセスで体得した習慣だと思う。
須長 問題は、スチュワーデスや窓口の仕事が、いまもそういう部分で計られるような仕事であっていいのかという点です。モデルとかアイドルとか性的魅力を「売り」にするような職業は実際にあるわけで、それらの基準に美とか格好良さが用いられるのは当たり前だと思います。もしかしたらスチュワーデスや窓口業務はかつてはそうだったのかもしれない。でも、現在もそんな感覚だとしたら、ちょっと……。「快適な空の旅」と言ったら、すぐに客はかわいい女の子の笑顔を求めてると考えるような浅はかな会社は、やはり見識が疑われても仕方がないのではないか。これは顔だけ、職員採用の判断基準からはずせという論理とは別種の問題です。確かに外見的な美しさも能力の一つだし、仕事上の「売り」の一つかもしれない。でも、そんなことでこびない方が会社のイメージアップにつながるんじゃないかなぁ。
伏見 仕事というのはいろいろな面があるわけです。例えば銀行窓口だったら計算が速くできるとか対応がいいとか、いろいろな要素を総合して計らなければならないとは思うんだけど、どの要素だけは差別的でいかんと取り上げるのもおかしな話だと思う。

見る見られる関係とエロス

伏見 エロスのコードのほうに話を持っていくと、石井さん自身は「アザ」のある女性というのは、恋愛や性的魅力ということで考えると、自分の中でどういう対象になるんですか。
石井 絶対そういう質問がくると思ったんだ(笑)。僕は「アザ」のある女性に性的ファンタジーを持つことはいままでなかったです。
須長 私は小学校や中学校のとき、学年が違ったので口もきかなかったのですが、そういう女性がいました。でも「アザ」があるからといって、排除するとか、気持ち悪いとか思うことも全然なかった。周りも「あいつ、お岩さんみたいだよ」という感じで言う人は全然いなくて、ごくふつうに、他の人たちと同じに見ていた。「アザ」はすごく目立つ特徴だけれど、眉が太いとか細いとかと同様だと。私に関しては「アザ」のあるなしというのは、性的ファンタジーの中で全然関係ないと思います。そのかわり目とか口とか鼻で、それが変型しているのならば、その人に対して拒絶感はあると思います。
伏見 でも眉毛だってこーんなに極太だったら(笑)それはそれで気になるものじゃないですか。人はスタンダードから極端に逸脱しているものに対して忌避感があるということだとしたら、その言い方、ちょっとキレイぶって言ってません(笑)? 須長さんの場合、「アザ」がプラスの記号ということなのでしょうか。
須長 「アザ」のあるなしが、そういう意味で優先度が高くないということ。肌の色とかはあまり気にならない。そのかわり、別の部分で絶対ダメということがあるわけです。つまり、「アザ」は絶対ダメというのではなく、個人の好みに還元されるんじゃないかと思うんです。
伏見 世間一般の美のヒエラルキーと、個人の内面にあるエロスの優先順位というのは必ずしも一致しません。そうした指向性と差別の問題というのは一筋縄ではいかない矛盾を抱え込んでいます。そういう問題を、石井さんはどう考えてるのかと僕は興味があったんです。
石井 「美のヒエラルキー」、「個人の内面にあるエロスの優先順位」もまだ議論できるほど自分の中で練り上がってはいません。
 ただ、「美のヒエラルキー」から生じている就職差別はなくしたい。顔に「アザ」のある人間が職に就けない、就きにくい状況は変わらなければならない。生活の根幹を決定する収入が、顔によって決まる社会は僕にとっては息苦しい。公然とは語られませんが、それでいい、という考え方も地下水脈のようにあるでしょう。好感度の高い容貌の人ほど、高収入であるという調査もあるようです。僕たちは「美のヒエラルキー」の低位に位置するのでしょうか。ならば、僕たちは低収入なのでしょうか。統計データはありません。まだ分らないことが多すぎます。
 僕は、美しく優れたものを優先する社会を、この顔にアザのある人間の視点で見て、取材しています。その過程で、伏見さんの疑問に答えられる時が来ると思っています。僕を含めた顔にキズなどのある「ユニークフェイス」の面々は、「美のヒエラルキー」の最底辺に生きる人と言えるかもしれません。そこから、顔についての新しい視点を見出すことができないか、と夢想しています。いま、「ユニークフェイス」の全体の会員数が全国で約一五〇人、東京で約五〇人。さっき「アザ」を持ってる女性に僕は性的ファンタジーを感じない、と言いましたが、これからは変わる予感がしています。本当にいろんな人がいますから。小さなアザで、ものすごく落ち込んでいて、絶望的になっている人もいますし、逆に僕よりも「アザ」の面積の大きな人で活発な方もいる。「アザ」の色とか、その盛り上がりかただとか、いろいろなタイプの方がいます。顔に大きなダメージを受けてる状態の人でも、この人って面白いなあと思える人もいます。人間関係ができて、恋愛が始まる可能性はあると思います。でも、人によっては相互嫌悪になる場合も考えられますが。それはみんな大人なので、大人として勝手にやってくださいという感じで、別に僕はなにも言いません。障害者が健常者との結婚(性交)を願うように、僕たちも同じ道を歩むのか、別の道を求めるのか誰にも分らないのです。
伏見 エロス的な秩序や美的な秩序をフラットにして、ピラミッドをなくそうという主張は、これは難しいし、実際、それが実現しても面白くないとも思うんです。差別というのか差異というのかわかりませんけど、そういう関係性を楽しんじゃうのも、人間という存在のありようではないか。存在するすべての価値観のピラミッドを、それは差別だといって否定することが、人が生きていくことを豊かにするとも思えない。それよりは、マイナーな存在に貼り付けられていたマイナスの記号をもっとカッコいいものとして再プレゼンテーションしていくというのが創造的だし、生産的ではないかと思います。
 ゲイの業界を見ると、外見に関してはそのことはかなり成功しています。ゲイの場合は存在が性に局在化しているというか、性が中心的なコミュニティですから、すごく欲望の部分にこだわりがある文化が創られてきました。デブが好きだっていう人とデブが出会えるデブ専バーみたいなものもあるし、「ジーメン」という雑誌が、ブルース・ウィリスみたいな「ハゲ」を性的嗜好としてスポットを当てようとして「ぶる〜す」というコンセプトを立てて盛り上げていたりとか、そのへんのゲイのカルチャーの性に関する多様性の賛美は、僕はすごく誇らしいと思っているんですね。
 ただ、そうは言っても、外見のスタンダードからの変型の度合いが大きければ大きいほど、マジョリティのファンタジーから遠ざかっていく現実があるわけだから、そういった新しいファンタジーを醸成していく方向性も限界があると感じます。なかなか難しいことではあるでしょう。だからそんなに楽観的ではないですが、できるだけ想像力と創造力を高めていくことで救われる人たちも増えていくのではないかと確信はしています。
須長 さっき、一般受けする像の幻想があるという話が出ましたが、実際、一般受けする像の消費者がたくさんいるわけですよね。例えば「ハゲ」の人はもうそこからはずれちゃっているわけです。自分でもそれがよくわかる。しかし、そのときに私に見えてきたのは、そうしたスタンダードにキャーキャー言ってる人たちに魅力は感じない。むしろ「ハゲもかわいい」という人に興味を持ちました。だんだんそっちに関心が移っていくと、一般受けする像を追求している人々に対して、どんどんバカにする感覚というか、気にしなくなる感覚が強くなってくるんです。
伏見 須長さんってけっこう理念的な人間だよね(笑)。僕だったら、一般受けする像にキャーキャー言ってる人たちは、あぁ、キャーキャー言ってるんだなと思うだけで、それとは別に自分にギラギラしてくれる人を見つけようと努力する、それだけの話。セクシュアリティって少なくとも入り口のところは記号ゲームだと思うから、「あ、あなたはそういう記号が好きなのね。じゃあそうじゃない人と仲良くしましょう」と思うぐらい。そっちがマジョリティであることは、僕にとってマイナスだとは思わないんですね。
 これまでのメディアはマジョリティのファンタジーとか、美意識みたいなものしか流通しない状態だったと思うんです。この状態は解消しなければいけないと思うのね。そういう意味で、インターネットってすごく画期的なメディアなんです。マニア探しにはあれほどいい媒体ってない。だからマイノリティとマニアが出会うには、これからの時代は本当にいい時代になっていくと希望を持っています。
須長 おっしゃることはわかるんですけど、ただ現実問題として、頭が薄い人の中にもブルース・ウィリスとかけっこうカッコいい人もいるけど、そうでない人もいる。仮に「ハゲ」がカッコいいというグループに入れられても、その中でまたもてない「ハゲ」が出てくるわけですよね。
伏見 それはしょうがないんじゃない(笑)。
須長 マイナスをプラスにひっくり返すというところに、どういう意味が……。差異を楽しむ豊かさみたいなのはわかるが、それを可能にするにはそれなりの社会的な条件があるはずで、それを考えずにただ差異を楽しもうというのはやや無謀だと思うんです。
伏見 どういう意味があるかって、単純に飢えてる人が少なくなるって、それだけ(笑)。
石井 顔に「アザ」のある人は、世の中で見られっぱなしだという意識で生きてるわけです。見ず知らずの人から視線を槍のように投げつけられて、防衛的に下を向いている。そうではなくて、あなたも社会を観察できるんですよ、あなたも他人をじっくり観察すればいいんですよ、自分自身の心の内面もちゃんと観察できるんですよ、と僕は当事者に訴えています。伏見さんの話を聞いてると、マニアの話は面白いんですけど、それは見る見られるの関係がとてもうまくいってる人間同士なら可能だと思うんです。僕たちは見る見られるの関係が、うまくいってない。ちゃんと真っ正面を見て、相手を見て、自分を見て、やっと身体が動くわけですから、見る見られるの関係性を、少しでもラクにするような作業を進めているわけです。それがある程度成功しない限り、マニア的な人たちとのコミュニケーションにリアリティを感じない。余裕がまだできていないところがありますね。
伏見 見なければいけないんじゃなくて、見ることの快楽に行けばいいと思うのね。なかなかそこまではいけないんでしょうけど。僕にはキャンディ・ミルキィさんていう知り合いがいて、彼は女装というか、キャンディ・キャンディの格好をしている四〇代のトランスベスタイトなんです。で、彼と一緒に歩いていたときに、ふと気づくと、キャンディさんは鏡を持ちながら歩いているんです。「あ、この人って歩きながらも自分のことを見て、なんちゅうナルシストなのか」と感心して、そう彼に言ったら、「いや、違うんです。すれ違いざまに自分を振り返る人の顔を見て楽しんでるんです」。そう言われたときに、この人は本当にヘンタイって思ったんだけど(笑)、それくらい見る快楽を堪能している。それもある種、攻撃性かもしれないけど、それって絶対的な自己肯定感がなければできないことだと思うのですが、そこまでいければいいでしょうね。
石井 それは僕もあります。歩いてて、なんかヘンなやつと思って振り返ると、向こうも振り返ったりして、それだけなんですけど(笑)。
伏見 認めてくださいスタンスだけじゃなくて、それこそ自分たちをバカにする人たちの顔が、「なんて下品で、お下劣。そして面白い!」って、そういう引き出しがもう一つあったらラクになりますよね。
石井 いまの僕ならそれができると思います。以前、アザのある側である、右目にカメラが埋め込まれていて、すれ違う人間の顔写真を全部パチッて撮り、『侮辱』というタイトルで本にしたら、すごい報道写真集になると思ってた時期がありました(笑)。ただ、現実の当事者は、自分を侮辱する人間の顔をまじまじと冷静にみつめる余裕がない。だから僕は顔をめぐる状況を書いて、普通の人も、「アザ」のある当事者をも巻き込んで「人間にとって顔とは何か」を考えるきっかけをつくっていきたい。顔にアザがある事で悲嘆に暮れている人、怒りに震えている人、そして、顔にアザがあることをとりたてて重大事と思わずに幸せをつかんだ人、そういうさまざまな人生がある。いま、普通の顔をした人たちは、こういう人たちをチラリと見て通り過ぎていくだけでしょう。その心の内面に気づいてはいない。侮辱する側を、笑い飛ばして、この現実を認めさせるためにも、これからも書いていきますよ。(了)