2009-05-11

記録しちゃうのはなぜだ?

「ACADEMIC RESOURCE GUIDE(ARG)」っていうメルマガをとってるんですよね。
アカデミアなリソースのガイドってワケだから、当然に、
 ◆九州大学附属図書館、九州大学蔵書印データベースを公開(2009-03-30)
とか、
 ◆福井大学附属図書館、福井県地域共同リポジトリを公開(2009-03-27)
ってことが紹介されている。
発行者は、岡本真ってひとで、ポットの「ず・ぼん」とう図書館向けの本にも記事を書いてもらったし、
顔見知りでもあり、なかなか一途に、アカデミアのリソースのオープン化を願って、キチット仕事をしてる人。
本を書いてもらうべく依頼もしてるし。

だから当然、岡本くんがいいとか悪いの話ではないんだけど
これを見るたびに、
●人間ちゅーのは、どこまでこの記録にエネルギーを注ぐんだろう、
●人間は、ほんとに記録が好きだな、でそれってなぜなんだろう
●でも、こんなにも膨大な記録って、利用しきれるんだろうか、人間ちゅーのは
●それから、イチバンの疑問は、記録に、こんなに金をかけてていいんだろうか?ってことだな?

周りを見回すと、みんな驚くほど「記録」、やってるよね。
まあ、このオレ自身が、「沢辺の今日この頃」なんて記録やっちゃってるし。
携帯電話をもってるってことはスチールと動画のカメラを持ち歩いているってことで、
昔に比べれば、その記録の頻度も量もものすごくふえてるでしょ。
ブログ/ミクシーとかも個人の記録としてはスゴいじゃん。

もし、世界が、今の日本くらいの「豊かさ」になったら、たぶんその世界全部の人たちが
こういう事を始めるんだろうしな。
イヤー、スゴいですね。どこまで行くんだろう。

で、それってなぜなんだろうな、。
どうも、この「記録したがり」って人間のサガってやつのような気がするんだけど、
どういうサガから、どうめぐって「記録したがり」にたどり着くんだろうか?
オレは、人間のオオモトのサガって、「他人からの承認を求めちゃう」ってことだと思ってるんだけど、
どうもこの先から、「記録したがり」に論理がたどり着かない。
うーん、だれか教えてくれないかな?

そして、この記録って、利用できるか?
オレの理解では、
アダム・スミスが言ったという「神の見えざる手」が市場の需要と供給するが均衡するための条件は、
完全な情報、だと思ったけど。
現状では、情報自体が不均衡なので、完全な情報にもとづいた、買う/買わないという競争が成り立っていなくて、
情報を持ったやつが勝っちゃう。
でも、よくわからないのは、そもそも完全な情報ってありえんのかな?ってこと。
膨大な情報を人間のアタマで処理する事ができるんだろうか、たとえコンピュータを使ったとしても。
だから、「神の見えざる手」が発動する市場の状態って、できないんじゃないか?って思えるんだな。
って具合に考えると、
機関リポジトリだのなんだの、って使い切れるか? 意味あるか?
蔵書印なんてデータベース化してなんになるんだ?
って思っちゃうことがあるんだな。

で、その九州大学図書館が蔵書印のデータベースを作ったってのは、
別にいいんだけど(当たり前だ、オレにいいとか悪いとか言われる筋合いじゃないよな)、
でもその費用は、多分九州大学図書館のスタッフの人件費なんかも考えると、
数百万、数千万かかってるんだろう。
そんなに、蔵書印に金つかっていいのか?
これが、個人の趣味ならゼンゼンいいんだけど(って繰り返すけど、もちろんオレにいいと言われる必要なんて、
まったくないのはちゃんと自覚してますよ)。

なんて事を書きながらも、
記録好きで、情報公開や、レポジトリとかどんどん進めばいいな、って思ってるオレも
いるんだな。
それ以上に、この「ポットの日誌」に「自分で考えたこととかをちゃんと残そう」
なんてことを最近考えていて、結構書き込みするようにしちゃってる。
ちょっとクルクルパーかな、。

このエントリへの反応

  1. 沢辺さん、こんにちは。

    存在を認識されること、行為を認識されること、成果を認識されること——こうしたことも、自分を承認してもらえたという思いの重要な一部ではないかと思います。そして、誰がそれを利用するのかわからないけれど、でも誰かに利用してもらえたときに「記録してくれた人のおかげで役に立った」と思ってもらえる(だろうと期待する)ことも、自分の存在の承認への一歩、という気がします。
    記録するのは、記録する価値がある、と信じた人がするわけですが、それは「きっと誰か他のひとも価値があると思うに違いない」という期待をものすごく込めているはずです。「他のひとにも価値がある」ことそのものが、記録することの「価値」だから。
    何も記録しないで死ぬのは、誰かに承認される可能性なく死ぬみたいでさみしい。
    ぼくも、自分がいなくなったとき、川添がこんなことそういえば言ってたよな、とか、そんなふうに誰かに思いだしてもらえればいいなとどこかで思ってます。たとえ「おまえの言うことは違うと思うよ」という声であっても、「おまえ」の存在や「おまえの言うこと」の存在を承認してくれた上での声ですから。

  2. かわぞえさん
    コメントありがとう。
    なるほど、記録することで承認される、されたい、ってことですね。

    それから、
    先日松沢呉一さんと話していたら、
    蔵書印のデータベースは、だれが保存されている本を持っていたか
    を調べる際に、必要性がたかいのだ、と指摘されました。
    まして、書き込みなどがあれば、その人の思考の一端を後年に分析できたりしてって。
    なるほど、です。