2010-05-11

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第2回「電子書籍をめぐる権利のゆくえ」

電子書籍は図書館で貸し出すべきか? 出版社が権利を持つ必要はあるのか? 出版界への批判はどこまで妥当か?
東京電機大学出版局の植村八潮さんに訊く、電子書籍をめぐる課題、第2回は権利のゆくえ。
(このインタビューは2010年3月27日に収録しました)

第1回はこちら→談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第1回「20年後の出版をどう定義するか」

プロフィール

植村八潮(うえむら・やしお)
1956年(昭和31年)生まれ。東京電機大学出版局長。日本出版学会副会長。共著に『出版メディア入門』(日本評論社、2006年)『情報は誰のものか?』(青弓社、2004年)。
東京電機大学出版局
連載「ネットワークと出版」

「いつでもアクセスできる」だけで価値がある

沢辺 読者の権利の方向はどう思ってますか? 今の読者の権利は、物体としての本を買うと、その物体をどのように処分してもいいでしょ。古本屋に売ってもいいし。

植村 物理的にはね。それは著作権が切れてるから。現状の著作権は古本屋に売るところまではコントロールしないということになってる。ファーストセールドクトリン、日本語で言うと「消尽」だけど、著作権は最初の読者で役割を果たしたと考えられているわけ。

沢辺 僕は今後の読者の権利は「アクセス権」になるんだと思う。コンテンツに対してアクセスする権利。今は物体を所有する「所有権」だけど。

植村 Kindleの『1984』事件があったよね(参照:Kindleユーザーの本棚から消えた「1984」、Amazonが勝手に削除!?)。『1984』を買った読者は権利を買ったつもりだったのに、嫌だと拒否することもできずに、一方的に消されてしまった、ということで問題になった。

沢辺 そっちの問題でもあるし、物体を所有する権利じゃなくて、アクセスする権利になると思う。

植村 でも、デジタルコンテンツは、そもそも「物体の所有」ではないでしょ?

沢辺 ハードディスクの中のデータが物体じゃないといえばそうだけど、1つのコピーの所有権を渡しているとも考えられない?

植村 いや、「所有権」ならば人に渡してもいいはずで、人には渡せないのだから、所有権という言葉ではデジタルデータは整理がつかないと思うよ。
デジタルデータになって、所有権から「読む権利」になったとき、電子書籍を買うことは、図書館における貸出やDVDのレンタルとどう違うんだろうか。僕はそもそも、図書館がネットを通じて本を貸し出す必要はないと思うんだけど。

沢辺 これは妄想で、技術開発が進めば状況は変わってくると思うけど、たとえばポット出版の本が図書館で購入され、それが貸し出されようが、誰にも読まれなかろうが、今は1冊分のお金をいただけるわけですよね。
でも「アクセス権」の概念に近くなっていくと、デジタルデータの提供は無料で、実際に利用者が読んだ分だけ、著作権者や出版社に利用料を払う、というかたちになっていくと思うんだ。

植村 そうじゃなくて、まずデータを図書館に置くところで半値を払ってもらったほうがいいんじゃない? 今でいう「本が館のなかにある」状態、つまり、「本のデータをいつでも自由に貸し出せる」状態で半値を払って、そこから先は利用された分、というかたちのほうがいいと思う。だって、館に置かれなければそもそもアクセスできないんだから。「アーカイブはでかいほど価値がある」ということもあるし、貸し出されることはなくても、置かれただけで価値は発生しているよ。

沢辺 そうすると、「館のなかにある」という概念も必要なくならないかな? 個別の図書館がデータを持つ必要はなくて、図書館協会のようなところのサーバーにすべてのタイトルを入れておいて、個別の図書館はそこからデータをもってくればいい。

植村 デジタルアーカイブになれば、個別の図書館がハブになる必要はなくなるかもしれないね。利用者は中央サーバーに置かれたデータに直接アクセスすればいいんだから。

沢辺 そのときのアクセス料金は、AmazonのKindleで買うときより安くなければならないと思うけど、無料はありえないよね。利用者にとっては無料になるかもしれないけれど、その場合は税金でカバーしなくちゃいけない。

植村 図書館の人たちは「税金でやって国民に無料でネット貸出をしたい」と思うかもしれないけど、その前に「ネット時代に公共図書館が必要か」を論じるべき。個別の公共図書館をなくしたら、その分の予算を国会図書館のデジタルアーカイブに回してすばらしいアーカイブができるかもしれないんだから。
僕は「有料レンタル」の領域を、「デジタル書籍を購入」という領域とは別に残しておかなければならないと思う。そして、デジタルコンテンツの図書館でのレンタルは、「有料レンタル」という概念にすべき。最近、国立国会図書館の長尾館長は「有料閲覧」という言葉を使っているよね。前は「自宅から借りられるようにします。それにお金を払ってもらってもいいですね」という言い方だったのが、「閲覧行為を有料化する」に変わった。これの反発は出版界よりも図書館界のほうが猛烈にでるよ。でも僕は、これがチャンスだと思う。有料閲覧を定着させていかなくちゃ。

沢辺 デジタルは、使われた回数がカウントしやすいしね。

植村 今までの図書館ではなぜカウントしていなかったかというと、カウントできなかったからでしょ? 昔ドイツでコピー機の値段に著作権料を上乗せしていたのは、回数をカウントできなかったからなのと同じように。いわゆる保証金制度だよね。版面権が導入されるときにゼロックスなんかが反対したのは、日本もドイツと同じように保証金をコピー機の価格に上乗せせざるを得なくなるのでは、と考えたからだよね。
でもデジタルなら、読まれた回数は完全にカウントできる。夢のような話かもしれないけど、書籍をコピーしたら、そのページの情報から書籍を特定して、著作権者にお金が行くようになればいいよね。

沢辺 それは妥当だと思うけど、俺は逆に怖い部分もあるよ。ポット出版が出している「ず・ぼん」は「図書館とメディアの本」という狭いターゲットに向けたものですよ。でも図書館の本だから、全国にある図書館がけっこう買ってくれるんですよ。今は買ってくれた分が利用者に読まれようが読まれまいが、1冊分のお金をもらえてるよね。でもそれが完全に利用回数に応じたものになってしまったら、今よりも入ってくるお金は減ってしまうかもしえない。
でもそれはしょうがないと思ってるよ。図書館員がチョイスしたことにお金が払われる時代から、利用者がチョイスしたことにお金が払われる時代に移るのはしょうがない。

植村 よく、「雑誌を記事単位で売ったら食えなくなる」という議論があるじゃない。雑誌は記事の集合体で、メインの記事やコラム記事などが、頭からお尻まで、流れに沿って配列された「雑」というパッケージを売っているものだから、記事単位では成立し得ない、という話。
だったら雑誌の記事単位の配信は、今のモデルではなくて、まずパッケージを買うところで課金をすべきだよ。その上で、記事単位に売らないと。
図書館が利用者に「今月号のうちAの記事を読むかBの記事を読むか」という選択肢を提供した時点でサービスが成立してるんだから、そこで基本料金が支払われるべきだよ。その上で、記事ごとのチャージが入るんだと思う。「ひとつも記事が読まれなければゼロ」というスタート地点は間違ってるよ。「基本料金+チャージ」ですべて成立すると、僕は思うけどね。
積ん読に意味があるのは、いつでもアクセスできる権利を買ったことになるからだよ。だから「いつでもアクセスできる権利にお金を払う」というモデルは既に成立してる。
デジタルの百科事典が出て、パソコンさえあればいつでも百科事典にアクセスできるようになったとき「こんなに便利な時代はないな」と思ったよ。これは「アクセス権」でしょう。
だから「アクセス権」という線は間違ってないと思う。あとは、時間軸の値段設定。「永久アクセス権」と「時間限定アクセス権」の値段の違いが問題になってくる。
デジタルにおいては、これまでの出版物の延長で考えてはいけないと思うよ。

ネット時代の図書館の意義

植村 アクセス権の定義の確認をしたいんだけど、「Kindleで本を買う」のは、そもそも「永久アクセス権」を買うことだったんじゃないのかな。それに対して図書館で本を借りるのは「期間限定」というルールがあって、だからこそ物理的な本を無料で読める。そうすると、「アクセス権」も期間限定になるのかな。
そもそも知的財産という考え方は、無体物を財産化していく仕組みで、一番最初は有体物の財産しかないよね。
無体物における財産を一番最初に定義したのはたぶん著作権だと思うけど、無体であるものに財産を認めようとすると、まず、範囲を決めなくちゃいけなくなる。物理的なものや土地なら範囲が決まっているけど、無体物は「私の権利はこうです」と定義しなくちゃいけない。たとえば特許の及ぼす範囲を克明に書き上げるとか、著作物だったら、「著作物の範囲はここからここ」と決めなくちゃいけない。
そして、情報というのはどうしても時間軸で価値逓減していくから、期限を切るしかない。だから特許も著作権も期限がある。
ということは、著者が死んで50年経ったら権利がなくなるように、Kindleで本を買ったときの権利は永久ではないんだよね。時間が経てばフリーで使えるようになるものだから。
そうすると、図書館は限定する期間が狭いから安い、というルールを持ち込むしかないよね。かたや永久、かたや一週間単位で、読み切れなければもう一度借りてください、というかたち。レンタルDVDと一緒だよ。レンタルDVDを借りるときも、1日延滞したらまた1日分取られるという約束で借りることができる。
僕が「図書館がネットでコンテンツを提供するサービスをする必要はない」と考えるのは、そこは税金で運営する範囲ではないと思うからですよ。
私たちのお金で価値を見出して市場を作る、産業を作る、というのが資本主義の美徳だとしたら、僕は「レンタルビデオってなんてすばらしいんだろう」と思う。図書館が紙の本にこだわっている間に、DVDを貸し出すというすばらしいサービスをしてくれて、カウンターにいる人も歯切れよく応対してくれる。
言ってはなんだけど、図書館は品揃えも少ないし、愛想のよくないカウンターで借りなくてはいけない。品揃えとサービスの面では、図書館よりもTSUTAYAのほうが圧倒的にいいんだから。もしTSUTAYAのサービスがなくて「DVDの貸出は図書館のサービスです」となっていたら、我々は今のようにDVDを借りる環境を持ち得てないと思う。これこそ、民間にやらせたからこそ素晴らしいサービスになっているものだし、ネットでコンテンツを流通させるのも民間のほうが絶対うまくいくよ。
だから図書館は物理的な館に留まるべきだと思う。紙の本はタフだから、紙の本を借りていく、という部分を深めていけばいいんだよ。皆が思うほど、すべてがデジタルにいくわけではないんだから。
教育がいかに人と人のコミュニケーションで成立しているかという話をしたけれど、それと同じように、図書館というリアルな場でやれるサービスはもっとあると思う。
図書館の人たちは、もっとそっちの議論をすればいいと思うな。

沢辺 今の図書館の人たちは、特に長尾さんを先頭にむしろデジタルのほうに話が向かっていて、「夢の電子図書館構想」という大目標があるけど、その方向ではないということだよね。

植村 ゆうき図書館(茨木県結城市)のように、館に来させるためにデジタルがある、館の中がいかに楽しいかを伝えるためにネットがある、としなくちゃ。あるいは館の中からネットワークを使って本の楽しさを演出してくれればいい。

沢辺 地域図書館にもうひとつ意味があるとしたら、渋谷図書館なら渋谷図書館でしか集められない情報を集める場所としての価値だよね。

植村 うん。中央サーバー「だけ」なんてことがありえないのは、絶対に地域でしか知ることのできない情報があるからだよ。

沢辺 例えば、地域の小学校が生徒に出したテスト問題を、図書館がすべて保存しておくとかね。そうすると、大人になったときに自分が受けたテストが見れる。

植村 あるいは、地域で配っている新聞のチラシを集めるとかね。何十年分ものチラシのアーカイブがあったら、メディア研究者は喜ぶよね。全共闘のアジビラを集めて社会学的に分析した素晴らしい本があるんだけど、それと同じように、スーパーのチラシのアーカイブだって第一級の資料になる。「ぱど」のような地域密着のタウン誌だって貴重なものだと思うけど、発行元だって全部のバックナンバーを保存していないんじゃないかな。そういった資料を保存するのが、地域図書館の本当の役割だよ。

沢辺 今デジタル化の方向を突き詰めれば、地域図書館はいらなくなっちゃうんだからね。

著作物の利用を許諾するのは誰か

沢辺 DRM(Digital Rights Management/デジタル著作権管理)についてはどう思う? この前山路達也さんという、小飼弾さんの本を共同著作者として作ったフリーの編集者に話を聞いて、それもこの「談話室沢辺」に載せたんですよ。そうしたらある人がその記事を面白がってくれて、対談の文章をコピペして、4回くらいTwitterで書いたんだよね。「面白かったので、ついつい一杯引用してしまいました」なんて言って。
だから俺は、別に怒ったわけじゃないんだけど、「引用じゃなくて利用だよね(笑)」と書いたんだ。当然、Twitterで書いた人も悪意があるわけじゃなかったんだけど、「ごめんなさい。不都合があったらすぐに消します」という返事が返ってきちゃったので、「いやいや、怒ってないよ。かまわないよ」と言ったんだよね。
今、出版社はそういう利用のされ方も嫌がってるんじゃないかな?

植村 いろんなところで利用されることを止めようとしている、ということ?

沢辺 そう。確かにTwitterにコピペするのは、著作権法上、引用でもなんでもなく、「利用」なんだよ。だけど、その利用の効果はあって、利用された部分を読んでポット出版のサイトに読みに来てくれたり、電子書籍だったら買ってくれる、という可能性もあるよね。
もちろん、完全なテキストを無料で配って歩くとか、ましてや有料で売ったりするのは違法だし取締るべきだけど、数万字の中の140字を数回つぶやいただけだよ。でも今の出版社は、そのつぶやきすら嫌がっていると思うよ。
だけど俺は、インターネットというのは、「利用」をされることこそが人気のバロメーターになると思う。DRMをかけて完全に閉じた空間に置いてしまっては、検索にも引っかからないんだから。

植村 そもそも本なんて、立ち読みできなければ売れないものだよ。立ち読みには物理的な制約があるということもあるけど、著作権法が成立する前からあった行為だから法規制がないだけかもしれない。その立ち読みはありなのに、一時期若い子たちがケータイで情報誌の欲しいところだけを撮影しちゃうことを「デジタル万引き」なんて言ってキャンペーンをやってたのは、その行為が販売に繋がらないからだよね。だから僕は、フリーミアム(基本的なサービスを無料で提供し、高度なサービスは有料で提供するビジネスモデル)って極めて特殊な例だと思うよ。
「ネット立ち読み」をどう否定するか、肯定するかを考えるなら「立ち読みを止めたら本は売れますか」と問い直したほうがいいと思う。
東京電機大学出版の本は、Googleパートナープログラムを使って、公式のサイトから20%立ち読みできるようになってますよ。それで本が売れなくなるとは思ってないし、まだ「やってみないとわからない」段階だよ。ネットの立ち読みが販売に結びつくかどうか、ちゃんとわかってる人は誰もいないんだから、やってみるしかないよね。

沢辺 今いろんな集まりで進んでいる電子書籍の話は無条件でDRMが前提になっているように思うんだけど、ちょっと違うと思う。
今ポット出版が「理想書店」から出している電子書籍も無条件にDRMをかけちゃったから、iPhoneで読んだときにテキストをコピーできないんだよ。でも、それって実はマイナスなんじゃないかと思うようになってきた。
インターネットの世界はコピーされたり検索に引っかかる場所に置かれたりすることで広がっていくところだから、その中に位置づけられる電子書籍はDRMを前提条件にして考えては上手くいかないんじゃないかな。

植村 今は、それを技術によって実現しましょう、という状況でしょ。Kindleで買った本は、KindleでもPCでもiPhoneでも読める。それはAmazonの仕組みの中で利用できる、ということだけど。

沢辺 でもそれでは、外に出て行かないよ。ポット出版のブログなら、いくらでもコピーできる。

植村 でも理屈から言うと、著作物の利用を他人に許諾する権利は、本を購入した人にはないよね。ポット出版のブログの記事は、沢辺さんが書き手だから「誰に利用してもらってもいいよ」と言えるけど、コンテンツを買った人間が、誰にでもコピーされ得る場所に置いて「利用させる」のは、難しいんじゃないかな。
だって、自分のアクセス権しか買ってないんだから、自分のアクセス権を無制限に他人に認めさせることはできないでしょ。

沢辺 いやいや、アクセス権を買った人が公開の場に置くのはダメでしょう。俺が言いたいのは、その一部をコピペできてブログで紹介したり、Twitterに貼ったりできるようにするってこと。今、出版社が「著作権法上の権利を作りたい」と強く言えるような状況に偶然なっているじゃない。さんざん叩かれてたけど。

植村 確かに、今は言えてるし、言える雰囲気作りは進んでるよね。

沢辺 でもそこは、正直言って評判が悪いわけだ。著作物の本来的な役割は、お互いが利用しあって来たことでしょう? 著作権とは著作物を利用しあう前提の上で、一定の期間限定で、創作者に経済的な利益を提供しましょう、というものだから、「いかに利用できるか」という視点に立たないといけないと思う。

植村 僕がクリエイティブ・コモンズ(Creative Commons/現行の著作権法に基づいて、著作物の利用を一定の条件で許諾するための雛形)という考え方は筋がいいと思うのは、その著作物の利用のされ方を許諾できるのは創作者だけにある、としているからだよ。いくら出版社が「嫌だ」と言ったって、著作者がクリエイティブ・コモンズに則って許諾をすれば、制限できない。今のところ、CCを使った解決策しかないと思うけどね。

沢辺 もうひとつ、登録制も考えられないかな。今、ディフォルトですべてに権利があることになっているけど、登録しない限り権利が発生しない、という解決策もあるんじゃないかな。

植村 それは理念として語ることはいいけど、現実の可能性は0%。なぜなら、「ディフォルトであります」がベルヌ条約の大原則だから。世界の著作権はベルヌ条約(1886年にスイスのベルヌで結ばれた、著作権に関する国際的な条約)の枠組みの中で動いてるんだから、登録制はありえないよ。
ベルヌ条約の枠組みは、無方式主義だから。アメリカは1989年までベルヌ条約に入っていなくて登録式だったけど、世界的な状況から抗しきれずに、加入したんだよ。
ベルヌ条約の枠組みを変えることは不可能なくらい困難。それを前提にすれば、クリエイティブ・コモンズは筋がいいと思う。それは、作り手だけが権利を主張できるから。ただし、ポータビリティを考えるのは別の議論だと思うよ。少なくともKindleは、Kindleの端末がなくても出先のパソコンやiPhoneで読むことができるわけだよね。それをKindle側のサービスとして全部保証した。これはありだと思う。でもKindleの戦略として、Kindleで買ったものをSONYのReaderで読めるようにはしないだろう。もちろん、ポータビリティを主張する人が「俺がKindleで買ったコンテンツを、SONYのReaderで読みたいんだから、移し替えさせろ」と言うのもありだと思う。だけど、それが可能なのはDRMの外側にあるフリーのコンテンツだけでしょ。例えば青空文庫のコンテンツは移せるようになるかもしれないけど、「すべての作品でポータビリティを保証しろ」という議論はないと思ってる。
それは、ポータビリティは技術で解決すべき問題だから、技術をサービスしている側がポータビリティを保証する、ということはあるとおもう。

沢辺 例えばAmazonじゃなくてbk1がポータビリティを保証した契約を作って、同じタイトルがKindleにもbk1にもある、という状況ができて、利用者がそれぞれ「値段が安いからAmazonがいいよね」とか「ポータビリティがあるからbk1がいいな」と選択できるようになればいいよね。

植村 「bk1ならどこでも使えます」というのは「Tポイントカードはどこでも使えます」というのと同じように、契約した範囲での話だけどね。bk1サービスに乗る電子書籍リーダーがどれだけ出てくるか。でも、技術はユーザーの要求があれば何とでも実現できるからね。

フォーマットをオープンにする意味

植村 もうひとつ記述フォーマットと実行フォーマットの話がある。素のXHTMLは、エディタで読めるわけだ。これにバイナリかけると実行フォーマットができる。
.bookを例にすると、.bookは実行フォーマット。でもその前に「TTX」という単純にテキストエディタで読める、タグ付きテキストの状態がある。TTXを「ドットブックビルダー」というビルダー(記述フォーマットを実行フォーマットに変換するソフト)に通して.bookにする。.bookもTTXも、ビュアーのT-Timeで開けば同じように見える。
同じように、AcrobatというビュアーはPDFという実行フォーマットを読む。Acrobat Professionalがビルダーだよね。
実行フォーマットを流通させるときDRMの仕組みを持たせるには、実はある特有のサーバの中に置いて、そのサーバーから発信するしかない。
ボイジャーはサーバーを自分のところで持って、DRMがかかったものしか流通させていないんだよね。
だから勝手に実行フォーマットをばらまいて、「僕が書いた文章だから読んで」ということもできなくはないけど、今はやっていない。
昔のエキスパンドブックの時代は自費出版みたいもので、自分の書いた作品を配布することに関してはタダだったけど。
今は青空文庫用のビュアーを提供していて、たぶん、中身はほとんどT-Timeだと思う。だから一応、青空文庫用にDRMがかからない流通する形態を作っているんだよね。
そうであるなら、.bookの自主流通はすでにやっていると言えるわけで、.bookの仕様もオープンにして、皆に使ってもらえばいいと思う。
ただ、仕様をオープンにするということは、誰でもビルダーを開発できるようになるということ。タグだけじゃなく実行フォーマットの構造も公開しないとだめ。
誰でもがビュアーを作れて、誰でもビルダーが作れる状況は、さっき例に出したPDFがそうだよね。ビルダーは商品として売っているけど、ビュアーは「皆さんフリーで使ってね」と配っている。
PDFは、アンテナハウスや情報処理学会がビルダーを作っているけど、なぜそれができるかというと、PDFの規格がオープンだから。
でもAdobeは技術を知っているから、Adobeが作るビルダーのほうが質がいいんだね。
例えば最近のコピー機はスキャニングしてPDFで保存できるじゃない。あれは多分、アンテナハウスのエンジンが入っているんだと思うけど、PDFのデータサイズがものすごく大きくなってしまう。そのPDFをAcrobatで読み込んで最適化すると、サイズがすごく小さくできたりする。
でも、いずれにせよPDFはオープンなことによってこれだけ広まったし、印刷を自分たちの世界に取り込んだわけだよね。
オープンにする部分と高い金を取る部分の両方作って、オープンでうんと広めることによってビジネスをしていくという戦略は昔からあって、PDFはその戦略が上手く機能した実例だよ。
だから僕は、XMDFでもT-Timeでも規格をオープンにして誰でもファイルを作れる環境を作りつつ、プロフェッショナルが高度なことをするときにはお金を取りますよ、という関係が作れたらいいと思う。

沢辺 それがオープン化だよね。

出版のルーズさを批判する人々

植村 例えばCCCD(Copy Control CD)は不評を買ったけど、不評の中の半分くらいは「それは違うんじゃない」と思う部分があるんだ。著作権上の逸脱行為を誰もやらないのであれば、CCCDなんて要らないんだよ。でも、逸脱行為をしていた人間が「こんなことやるからサービスが悪いんだ。自由にコピーさせることで人気が出て売上が上がるんだから、俺たちの自由にやらせろ」というのはとんでもないよ。
「本の中の20ページが読めますよ」「PDFで全文ダウンロードできますよ」というフリーミアムの発想は、提供者側がやるサービスなんだから。中国のコミック違法サイトに抗議すると「俺たちは貧乏だから金を払わないけど、俺がばらまくことでお前ら有名になって金を儲けているんだから、それでいいだろ」と主張しているらしいけど、絶対間違ってる。
個人が金も払わずにすべての著作物をばら撒き続ければ、絶対体系は崩れてしまうよ。そんな状況になったら、誰がコンテンツにお金を払うかな。

沢辺 CCCDのようなものに反対するとしたら、利用者側には「買わない」という対抗手段しかない、ということを言いたいわけだよね?

植村 そう。「CCCDはけしからん」と言っていた人すべてを否定するわけじゃなくて、金も払わずにYouTubeにアップロードしていたようなやつが主張できる話じゃないだろ、ということ。でも、ネット世論にはそういう人もいるから、そういう人の論には怒ってる。

沢辺 「反対派の半分には怒ってる」ならいいんだけど、俺が危惧してるのは、「おかしな主張が含まれているから、反対派は全部駄目だよね」となることで、今の出版界はそうなっているような気がするんだよ。

植村 そこは、僕らも含めて上手く議論を腑分けできていないよね。おかしな主張をする人は、出版社にだって著者にだっていっぱいいる。他人の本の引用にはルーズなくせに、自分の本をまねしたと怒る著者とか。「自分の本はどんどん無料で読ませてください。でも出版社はお金をください」と言うのもおかしいよね。「無料分は、印税はいりませんから」と言うのなら、まだ筋は通ってると思うけど。

沢辺 俺が腹が立つのは、締切を過ぎているのにも関わらず、うんともすんとも言ってこないようなライターが出版契約批判をしたりすることですよ。「ちゃんと契約をしてこなかった日本の出版界はおかしい」とよく言われるけれどさ。

植村 でも、契約のない出版社というのは本当に減ったよ。少し前まで契約はほとんどしていなかったけど、それは「契約をするような作家は二流だ」と作家側が認識していたからだよ。文芸作家と呼ばれる人は契約書なんて書かないし、今も書いてない人は多いと思う。契約書を持っていって怒鳴りつけられたという話も聞いたことがあるくらい。「電子化のこともあるし、そろそろ契約を結ばなくちゃいけない」と思って先生のところに持って行ったら「なんで俺からなんだ。俺はそんな二流か」と怒鳴ったんだって。だから、出版社だけの責任ではない。
でも、そもそも口頭契約は紙に書かなくたって立派な契約だから、「100%契約があった」と言い切れる。「よろしくね。いつもの通りでいいんだから」と言うのは立派な契約なんだから。

沢辺 だから出版社は、たとえ口頭でも「そういう契約はありませんでした」なんてことは言わないよ、という意思を持っているんだね。

植村 著者と出版社で、契約関係は完全に成立していたんだからね。著者も「契約書を書いていないから印税はもらえない」とは思ってないし。

沢辺 この前ネットで見たのは、「原稿を上げたのに、のらりくらりといつまで経っても本にしてくれない」というものだったけど、そんなことはいくらでもあるよね。

植村 出版社は「原稿入手後六ヶ月以内に出版する」という主旨のことが著作権法上の出版権の項目に書かれている。一方で、おおかたの出版契約には「著作物を作るための経費は著作権者が負う」と書かれているにもかかわらず、「悪いけどこの写真見つけてくれ」という場合もあるし、「先生、この写真駄目だから、僕のほうで見つけておきます」ということもある。それでお金がかかっても、著者に請求なんてしないじゃない。でもそういうルールの中でお互いやってきたんだから、それはある種の契約だよ。
村瀬拓男さん(新潮社)が「紙がなくても立派な契約だよ」と言うのはそういうこと。

沢辺 相手が契約関係を否定したら、紙の契約書が必要になるけど、口頭契約であってもお互いが「そういう契約をしたよね」と言えば、それが裁判でも前提になるわけで。

植村 出版契約上の裁判って、ほとんどないでしょ。著者との契約上のトラブルは少ないよ。
だから、出版社と付き合ってない人からそれほど批判されるような話じゃないだろう、と思う。
去年のことだけど,ある「出版シンポジウム」で,ちょっと面白いやりとりがあってさ。自称作家なんだろうけど,会場の参加者が質問に立って,「文学賞に丁寧に書き上げた原稿を投稿したのに、選考に通らなかったら返事もよこさなかった。傲慢だ。最近の出版社は駄目になってる」って発言したんだ。当の文学賞の主催出版社の社長がパネリストで,困惑して謝ったわけ。「そんなでき損ないの原稿を送りつけておいて、偉そうに言える話じゃないだろ」とは言えないよね。そしたら,別のパネリストが「書き手になろうと思うなら、そんなにナーバスじゃ生きていけいないよ」と厳しく諭したんだ。山ほどの原稿をダメ出しされて、それでも書き続けられるタフなやつが書き手になるんだから。
理不尽かもしれないけど,でき損ないの原稿を応募して、駄目だったら返事がないのは当たり前、それを受け止められないでどうすんだよ、って思うけど、みんなの前で言い切ったパネリストは、さすがだね。
だから僕らも、今のネット世論にナーバスになる必要はない。そもそもネットに限らず「世論」ってバイアスがかかっているものだからね。ただし、ネット世論を気にする必要はない、と言い切ることはできないよ。なぜなら、デジタルコンテンツを買うユーザーはネットの中にいる人達だから。
ということは、ネット世論が批判的に形成されればされるほど、デジタルコンテンツは売れなくなる。それはかつてのCCCDがそうであったように。CCCDだって、ネット世論が反発しなければ売れたと思うんだ。正規のユーザーまで敵に回したから、反CCCDのムーブメントが作り上げられたけど、CCCDが当時目指したことは、今SONYやAppleがやっていることと大差ないと思うよ。ネットを味方につけるある種のプロパガンダが上手いか下手か、という違い。当時のSONYが下手で、Appleが上手かった。やっている技術的な制約はほとんど変わらないんだから。
だから、ユーザーがネットの中にいる以上、ネットの言説はお客さんの声なんだから、謙虚に耳を傾けたほうがいいよね。
出版社はそこに意識が低いよね。

沢辺 「文学賞に応募して返事がなかった」という話はレベルが低いと思うんだけど、出版界に片足突っ込んでるライターたちだって、「契約書をちゃんと作れ」という論に加担している人は多いよ。

植村 それはもちろん、だらしない出版社まだまだ沢山あるよ。ライターを搾取しているような連中もいっぱいいる。だからライターやレイアウターや編プロが劣悪な環境で仕事をしている仕組みは現実にある。契約なんかとてもできないような、ね。

沢辺 でも、契約したからギャラが上がるかというと、上がらないんだから。でもそのレベルのことに、出版業界に片足突っ込んでそれなりにものを知っているライターが「それはおかしい」って言ってるんだよ。出版NETSだって、「出版条件の明確化」「契約書をちゃんと作る」というのを運動目標にしているでしょう。

植村 下請法は、契約内容は劣悪なままでいいの?

沢辺 下請法で単価が上がるわけじゃないから、交渉する以外に方法はないでしょ。それと「ライターは打ち合わせで約束した締切通り原稿を書いてくるか」というと、締切が守られないこともいっぱいある。契約は双方向問題だから、ライターの側だって責任取らなきゃいけなくなってきつくなると思う。
契約って本来、「何月何日納品」というものだよ。

植村 なるほどね。期日を守らないライターは次から使ってもらえないけど、今回の仕事に対してペナルティはない訳か。そういえば昔、電大でも情報系の本を出しているから、プログラマーやSEに執筆依頼したことがあったんだけど、彼らの原稿の締切を守ることに対するナーバスさは凄かったな。「すみません! とにかくあと3日待ってください」という感じ。3年待つような原稿もあるのにさ(笑)
プログラマーの世界では、納品といえば絶対厳守で、しかもバグ取りして全部動くまでランスルーして確認して、というやり方で鍛えられている人だから、原稿も同じ世界だと思っているらしくて、「3月末まで」と約束して書けなかったプログラマーが本当に必死になって謝ってきたけど、僕から見たら著者だから「いいですよ、先生。そんなこと言われたの、僕生まれて初めてです」なんて話をしたけど。
プログラマーの世界は厳しいけど、それと比較してライターの世界なんて確かにルーズだよね。

沢辺 プログラマーの世界では、納期から遅れたら損害賠償請求ってされるのかな?

植村 昔聞いた話だけど、プログラミングの契約って納期から何日遅れたらいくら下がる、というところまで書いてサインしていたからね。

沢辺 だから、あるところを超えたらタダ働きになるんだよね。出版も、そういうことになるわけですよ。
でも、この話がどこから来たかというと、ネット世論で「契約書もない」という不満が通用している、というところからだから。

植村 その不満がある人ほど、暇こいてネットで書いてるわけだよね。

沢辺 実情を知っているライターですらネット上の「しっかりした契約を」的な主張への共感がある。
そこにふたつ見方があって、ひとつはさっき話に出たように、「ネットの世論は味方につけなければいけない。どうせならばAppleになろうよ」ということ。これはそのとおりだと思う
もうひとつは繰り返しになるけれど、出版社がちゃんと言ってこなかった、というのがあるよね。気持ちはわかるんだけどさ。

植村 やっぱり不況だからさ。景気がいいときはライター稼業なんて困りはしなかったんだから。でもおいしい時代に戻るのは無理なんだとしたら、お互いにシビアな契約書を結びましょう、でいいと思うんだけどね。
印税は何割で締切はいつで、締め切りを過ぎても原稿が上がらなければペナルティはいくら、というかたちで。
でも、本当にそれでいいのかな? ネットで契約のことを言う人たちは、そういうことまで含んで言ってるのかな。

沢辺 いや、そこまでは思ってないでしょ。2月1日に阿佐ヶ谷でやった「2010年代の出版を考える」のイベントのときも「印税10%に根拠はない」と言う人がいたけど、でもそれは当たり前のことだよ。

植村 うん。それは俺の原稿料がペラ1枚1000円なことに根拠がないのと同じことだよ。「お前は2000円あげられるライターじゃないんだもん」という話だからさ。

沢辺 その根拠は、植村さんの過去の実績から示せないことはないのかもしれないけど、意味はないよね。

植村 意味ないよ。「じゃあ、君じゃなくていいよ」と言うだけだもの。印刷所にページを組んでもらうときに見積りを出すけど、ページ組代でしか見積もらないじゃない。それに根拠はあるかと言われれば、ないよね。印刷所の機械が年間何回回って、と計算するなんてありあえないよね。

沢辺 うちでデザインの仕事を請け負うときも、話せば大体方向性が合意できてすごく仕事のしやすい人もいれば、何も考えないで全部アイデアで持ってきて、「3つも4つも並べて選ばせて」という編集者もいる。
そんな時は請求額変えたいよね。例えば印刷屋でいえば何字赤字を直したとか計算できないこともないけど、ページいくらでやってるからね。
もちろん、印刷屋もそこはある程度計算していて、電大に出す値段とポット出版に出す値段を変えたりしてるし、面倒な会社には紙代やいろんな部分に上乗せしたりしてるよね。その塩梅に根拠が示せるかと言われても、担当者の感覚くらいだよ。
もちろん根拠を求めて考えることは大切なんだけど、要はどう合意を作るかが問題だよ。
Googleブック検索にしても、俺はやっぱり「オプトアウト」でいいと思うんだよね。先にやっちゃって、嫌だったら外しますよ、で。

植村 Googleのときの説明会でも「こういう風にしますので、問題ある先生は言ってきてください、じゃ駄目ですか」と質問があったよ。「うちは著者だけでも2000人いるので、いちいち許可なんて取ってられない」って。でも、それこそオプトアウトだよね。「全著者に通達がちゃんとされてないから、駄目でしょうね」と言われていたけど。通達がされてないと、裁判になったときに弱い。

沢辺 でも、裁判するやつなんていないんじゃない?

植村 うん。でも刺すようなやつがいたときに怖いよね。だから、刺すような付き合いをしてきちゃ駄目ってことだよ。
昔に怨念を持たれたライターがいるとか、印税を払ってない著者がいるところは出来ないね。

絶版は独占権を打ち切ること

沢辺 ある出版社の人は「著者に絶版通知を送ったらクレームが来た」って言ってた。その出版社は最近、絶版通知をしたんだって。そうしたら「なんで俺のものを絶版にするんだ」と著者から抗議を受けて、担当の編集者からも「勘弁してくれ。絶版通知なんて出さないで済まそうよ」と言われたって。でもこれは、話が逆だよね。絶版にするということは、著者の人に「あなたの著作物をどこに持って行ってもかまいませんよ」と言うことなんだから。

植村 でも、未だにそういう認識だっていうことだよね。著者のためにやってるのに、そう思われない。「俺は天下の大出版社から本を出しているんだ」ということにしがみついている著者もまだいるんじゃない?

沢辺 しがみついてるから、腹が立つんだろうね。でも、本質的に考えれば、品切重版未定で塩漬けにされるよりはいいんだから。

植村 そんな話はいくらでもあるよね。出版社が著作権が切れるのを死後50年から70年に延長しようという話にウンと言えないのは、著作権が切れるからビジネスできてる部分があるからだけど、著作権についてわかっていない編集者なんてゴロゴロいる。
あと、出版界には単行本を出したところと別のところが文庫化をするときは、最初に出した出版社が何%からもらえるという商慣習があるじゃない。あれは慣習としてそうなっているけど、どこにその権利があるだろう、と考えてみると変だよね。

沢辺 いや、文庫化の場合は権利はあるでしょ。出版契約が生きていた場合は、独占使用権を打ち切ることになるんだから。

植村 でも、単行本が絶版になったあとも、ちゃんと払い続けるんだよ。そもそも単行本があるときには、文庫本化を認めないんだろ?

沢辺 ポット出版の本を別の出版社が文庫にしたときに、その出版社がどういう論理立てで交渉してきたかというと、独占契約の解除と在庫補償だったよ。極端に言うと、「在庫は何冊残ってますか」と聞いて、言われた部数を買い切ったほうが文庫化料の2%より安くなるんだったら「残りは全部買い占めます」と言うんだそうだ。そうしたら、元の版元にはリスクはないわけだから。
そもそも、著作物のことを考えたら、もう一度文庫なりに姿を変えて市場に出るのはいいことだよ。

植村 なるほど、文庫の方が初版部数は多いしね。

沢辺 うん。ポット出版に権利を置いたままで今後爆発的に売れる可能性がほとんどないことは発行後数年経って明らかになってるのに、権利だけをかさに取って「嫌だ」と言うのはいやだ。
それよりは、著作物がもう一度世に出直すほうがいいと思う。
2%は大したことないといえば大したことない額ですよ。むしろ、世に出るチャンスを潰さないほうが大切だな、と思う。そのときに10万くらいもらうのは、別に悪いことじゃないんじゃないかな。

植村 売る力がない出版社が抱えているくらいだったら、著者のことを考えても文庫出版を認めるべきだよね。

沢辺 むしろ、岩波なんかのほうが抱え込んでるよね。

植村 抱え込んでる。絶対出さないよ。

沢辺 俺、岩波に電話したとき「うちはそういうことはやってません」って言われたことあるよ。

植村 そう。だからやっぱり、ライターに対して「お前にこの文章の権利はないんだ。出版社にあるんだ」と言っちゃうような編集がいるのも事実なんだよね。勉強不足なのに主張しちゃって馬脚を現してる連中もいるから、出版社批判も無下には否定できないんだけどさ。
だからやっぱり、「つぶれていく出版社はつぶれてください」と言いたいわけ。
その上で、出版社が本来果たしてきた役割の中の残していきたい部分を、どう残していくか。そこでは、デジタルやネットによってこそ生かせるものがあると思ってる。そういうものはやり続けないと見えないから、まず、やってみようよ。
もちろん出版そのものが好きだし、著者に出会って「こういうものがいいですね」と思いついて出せるのは楽しいんだよね。(了)

第1回はこちら

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第1回「20年後の出版をどう定義するか」

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