ダンス的思考

いまの日本には、新鮮な驚きを与えてくれるダンサー、振付家が多くいます。なかでも優れたコンテンポラリーダンスの担い手たちと、ダンス批評のホープ・武藤大祐が交わす往復書簡。ダンスがどれほどこの社会のなかで「一般性」をもっているものなのかを、対話のなかに解いていきます。

2005-02-10

新作公演が始まりますね

砂連尾理 様 

 長い間を空けてしまい失礼しました。もうすぐ東京で砂連尾さんたちの新作公演が始まりますね(2月11・12日、三軒茶屋・シアタートラム)。今回の作品では初めて、ご自身たちの他に別のダンサーを交えて振付作業をされたとのこと。それがどのような形に結実したのか……期待しています。

 さて前回、砂連尾さんが書かれていた、「身体を通すからこそ感じてしまうアンビヴァレントな感情、その不安を取り除く為に身体を麻痺させたいとは思いません。それを抱え続ける事は時に苦痛ではありますが、そこにしか希望を見いだせない」というくだり、特に「希望」という部分が重要だなと思ったんですね。つまりそれはどこへ向かう希望なのか、何が賭けられた希望なのかと。そこでぼくなりに考えを進めてみました。

 ぼくが思うに、その希望とは、言葉を介さず体と体で「直接」コミュニケートしているのにまだ足りない、もっともっと他者と深く分かり合わなくては、というオブセッションのことではもはやないのではないかと思うんです。むしろはじめから他者の「心の奥」へ入って行くことなどできはしない、人と人が「分かり合う」ことなど永遠にあり得ない、という断念があり、その互いに閉鎖された内面の表皮と表皮が向かい合うところで何か別の関係の方法を探すほかない、そういう意味での切羽詰った希望、というよりむしろ単なる「可能性」のことではないか。ダンス的な思考が向かうのは常にこういう表面の、形のレヴェルのことでしかありえないのではないか。

 「鏡」というのはやはり多かれ少なかれ比喩的な言い回しですが、これをもう少し具体的な現実に即して捉え直してみたいと思います。前回は黒沢美香さんを例に出しましたが、砂連尾さんに他の人はどうかと問われて即座に思い浮かんだのは、伊藤キムさんと北村成美さんです。特にキムさんは、舞台として構成された彼の振付作品ではなく、即興をしている時の彼。恐らく「客いじり」というジャンル(?)においてこの二人の右に出る者はいないでしょう。いうまでもなく、単にお客の喜ぶことを次々やってみせる種類のエンターテイナーではありません。何か仕掛けてくるように見せておいてサッとはぐらかしたり、近寄ってみせたかと思うと突っぱねたり、観客を混乱させていたはずが自分で自分のことがよくわからなくなっていたりもする。とにかく観客との間に関係の揺らぎ、あるいは不安定な関係を作り出すわけです。当然、必ずしも楽しいばかりではない。不安になったり、傷ついたり、恥をかいたりすることすらある。しかしその緊張感を介して、観客はダンサーとの何らかのコミュニケーションに入り込みます。ここでダンサーが操作しているものは、「間合い」だとか、「距離」だとかという言い方もできますが、それもやはり比喩だろうと思うのです。実際には何が起こっているのか。

 これは人と人が会話する場面に似ています。一方が話す時、他方は聞きますが、同様に、ダンサーは踊り、観客は見るわけです。そこに「鏡」のような構造ができるように思える。つまりこの二者の関係は非対称の一方通行ではなく、互いが互いを映し合いながら作用し合っている。こういう状態を指して「インタラクティヴ interactive」という言葉が一時流行りましたが、やはり一面的な言い方です。いうまでもなく「相互に働きかけ合う」という意味の言葉ですが、二者がどちらも能動的 active に喋っているだけでは会話など成り立たない。むしろ相手が「聞く」という受動的 passive な行為が前提にあって初めて「話す」が可能になります。もちろん一方的にまくし立てて相手を聞き役に縛り付けてしまうという場合もあるでしょうが、しかし、ということは逆に、「聞く」という行為には、「話す」という行為を可能にする働きがあるということにもなります。相手から言葉を引き出すためにわざと黙る、ということなら誰でも普段からやっています。

 キムさんやしげやん(=北村成美)の場合に話を戻すと、この二人は能動と受動、「押し」と「引き」を交錯させて、通常は聞き役に徹している観客を触発し、能動性を(たとえいかに微量なものであろうと)引き出すことにおいて巧みなんだと思います。そしてこれは、とりわけダンス的なコミュニケーションでもありはしないでしょうか。つまり一方が踊って、他方が見る、そんなスタティックな関係では収まらないのがダンスのダンスたる所以だからです。良い踊りは必ず観客を踊らせる。もちろん客席では踊らないけれども、体の内側では踊ってしまっている。結局ダンスは踊ることでしか味わえない、いくら目を皿のようにして見たって無駄であるというか、見るということが結果として踊ることに繋がってしまう、むしろそうでなければ「見た」とすら言えないのがダンスだと思います。

 だとすれば、ダンサーが良いダンスを踊る場合において重要なのは、実は「踊る」という契機だけではなくて、「見る」あるいは「聞く」という契機なのだということが一般的にいえることになります。観客の呼吸を読む、とでも言えばわかりやすいんですが、それだと「御用聞き」のような従属的な振る舞いになってしまう。そうではなくて、いわば他者に対する受動的な(開かれた)姿勢が、その他者に向けての能動性とベッタリ裏表をなし、「聞く」行為が他者の「話す」行為を触発するような相互作用のサイクルを作るのがダンスなのではないか、ということなんです。ダンサーのダンスが観客を踊らせ、観客の(潜在的な)ダンスがダンサーを踊らせるのだから、要するに「踊る」ということは、他者によって「踊らされる」ことでもありつつ、そのことが同時に、また他者を「踊らせる」ことにもなっているわけです。

 このような合わせ鏡の関係は、原理上、どんなものとでも結ぼうとすることができます。実際、ダンスの相手は人間だけではないですよね。人間は動物とも踊れるし、実は機械とだって踊れる。植物や水、空気と踊ることもできます。これは第一にはまず想像力の問題ですが、その一語で片付けてしまっては意味がありません。野生の動物の群れに動物行動学者がいかに接近するかということについて書かれた文章を読んだことがあるんですが、動物行動学者は、例えばゴリラの群れを間近で観察しようとする時、ゴリラから若干の距離をとって身を投げ出します。無防備に振舞うことで逆に相手の警戒を解くわけですね。そしてゴリラの行動を真似したりする(ダンスが観客に伝染するのと似ています)。ここからゴリラと人間のコミュニケーションが始まります。ゴリラの「心の中」など何一つとして理解することはできないし、する必要もない。関係は築かれつつ、内面と内面は永遠に断絶したままで、それ以上を望むのはむしろ不毛です。

 コミュニケーションの相手を触発するというのは、「話しかける」こと以上に「聞く」ことであり、「触れる」こと以上に「触れられる」ことなんだと思います。話を「聞かれた」人は、自分が「話して」いるのだということに気づかされる。故意に相手に身をさらし、「触れられ」てみせることによって、相手に、自分は他者に「触れて」いるのだということに気づくよう仕向けることができる。そして今までにはなかったもの、可能だとは思われていなかったもの、人々の想像力のレパートリーの中になかったものを作り出すことがアートなのだとすれば、アーティストの仕事とは、何と、いかに踊るかということの可能性を広げるところにあります。観客(人間)、動物どころか、ボーリングの球やコーヒーカップと踊り、物をして語らしめてみせたのが白井剛さんの『質量, slide, &.』(’04年11月、シアタートラム)でした。もちろん、人間、動物、物、機械、こうしたあらゆるものと人間は踊れるとはいっても、踊る人にとってはこれらがどれも同じようなものだと言いたいわけではありません。白井さんの舞台は、「インタラクティヴ」ではなくて、「ライヴ live」、つまり「生」ということについて考えさせるところがあります。しかしまた長くなってしまったので、ひとまずここで区切ろうと思います。砂連尾さんの「希望」という言葉から勝手に自分の考えをどんどん広げてしまいました。これが砂連尾さんの念頭にあったことと重なっているかどうかはわからないものの、とりあえず球を投げてみた、というところです。

2005年2月10日

武藤大祐 拝

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