2009-10-01

自我作古「彼を知り己を知らば……」 ~中華人民共和国・建国60周年を迎えてⅡ~

 一九九三年11月5日から夏期バカンスを除く毎週末に筑紫哲也さんが欠かさず発表したコラム『自我作古』(『風速計』の場合もあり)を読み返す日々が続く。
 中華人民共和国の民主化について考えるヒントは第371回「彼を知り己を知らば……」にあるように思う。引用する。

☆☆☆☆☆☆

 世界初の大学が建てた平和博物館とされる「立命館大学国際ミュージアム」(京都)がリニューアルされたのを機会に、そこを再訪した。

 もともとよくできた博物館だが、初心者に興味が持てるような工夫(「きっかけ展示」)や、展示だけでなく、さらに詳しく知りたいと思う者への情報を辿る回路を設けるなど、さらに改善が加えられている。

 世界中には、互いに連絡を取り合っている平和博物館がおよそ一〇〇あるが、その半分は日本に在るという。これは誇っていいことだと思うが、「平和ボケ」とか「一国平和主義」とかの罵りことばで「日本特殊」を咎める風潮が強まっている昨今では、「平和」を展示することは容易ではなく、展示の仕方にも工夫が要る。世界中を覆っているのは、兵器を陳列したり、「われ戦えり」と勝ちいくさを強調する戦争博物館や記念建造物(モニュメント)の類である。

 工夫が要るのは、博物館の展示方法だけではない。

 もともと、戦争と平和は表裏一体を成しており、「平和のため」を掲げて行われなかった戦争は滅多にない。しかも博物館や記念碑で象徴されるように、平時においても「戦争文化」は「平和文化」に対して圧倒的に優勢なのである。さらに皮肉なことに、このせめぎ合いのなかでは、「平和(文化)」を守る側も、そのために「戦う」ことが求められる。もちろん、平和的な方法によって、ではあるが---。

 ではどう戦うか。その場合、もっとも心すべきことは何か。

 表題のことばは、戦争文化が全盛のころの日本人ならばだれでも知っていた、孫子のことばで、「百戦殆(あや)うからず」と続く。敵と味方の状況をよく知り、把握して戦うならば、いくら戦っても負けることはない、という意味である。ナポレオンも今の中国を創った毛沢東も「孫子の兵法」の愛読者だったが、彼らはこの有名なことばの次に続くのが何だったかも知っていただろう。

「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」---敵側の実情がわからず、自分の方だけ知って戦う場合は勝敗の確率は五分五分。

「彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆(あや)うし」---敵の様子も、自分たちの能力もつかんでいないで戦う場合は勝てる見込みはない全くない。

 「孫子の兵法」は、「戦争文化」が生んだ作品、それも傑作のひとつと呼んでいいものだろう。「平和文化」の側に身を置きたいと願う者がそれを援用する場合には、よほどの用心と咀嚼(そしゃく)力とを備えなくてはいけない。「平和のために戦うぞ」というシュプレヒコールに何の矛盾も感じないような鈍感さであってはならない。

 「戦争文化」の常として、孫子は「敵」(彼)と「見方」(己)を峻別するのだが、それを超えて大事なのは「知る」ということの意味だと思う。「戦争文化」を「彼」、「平和文化」を「己」とする場合、相手の心理過程と実力を「知る」ことも大事だが、「彼」と「己」との距離、相違を「己」のなかで「知る」(確認する)ことはもっと大事だ。貪欲、無知、無関心、強がり、自己陶酔、既成観念や大義への安易な寄りかかり---相手と同じものが「己」のなかにないか。立命館大学で、「平和」に関心のある聴衆を前に、私はあえて「あなた(私たち)の心が戦争を起こす」という話(講演)をした。
【2005.6.3】

☆☆☆☆☆☆

 中国に限った話だけではない。
 官僚(彼)を知らず自分の能力(己)を知らないで戦う場合は、「勝てる見込みは全くない」。前原誠司・国交相や岡田克也・外務相の動向を追いながら「殆(あや)さ」を覚える。
 しかし、「君子(くんし)危うきに近寄らず」という故事に倣って(君子と自分は程遠いが)、静観しよう。いずれは書く。

 最後に、田中康夫「新党日本」代表と筑紫哲也さんのいざこざをあげ、故人を攻撃する文が散見しているので、もの申したい。

 田中康夫さんが「筑紫哲也のNEWS23」をボイコットしていた折にも、筑紫さんはそれを承知で、コラムで康夫さんを応援した。2002年夏のことだ。

 2006年春、フランス共和国から帰国したばかりのころに参加したあるパーティーで、田中康夫・長野県知事(当時)が筑紫さんに丁重にご挨拶され、談笑する二人を見て、微笑ましさとともに、安堵感を覚えた。康夫さんはいまでは、故人の遺志を継ぐ“筑紫ジャーナル”門下生の一人ではあるまいか。ちなみに、康夫さんが加藤周一さんと最後にお会いしたのもその会だ。

 康夫さんが帰られた後の光景が今も目に浮かぶ。

 パーティー会場外にある庭園の椅子に加藤さんと筑紫さんが座られ、春にしては強い陽射しのなかでお二人が話し合う。筑紫さんも加藤さんも真剣な雰囲気だった。談笑とはとても似つかわしくない雰囲気だった。そんな時間が長く続き、筑紫さんが席を立ち、帰途についた。

 筑紫さんと加藤さんが天に召されて以来、わたしはその光景を時折、思い返す。あの日、何を議論(論議)していたのだろうか。

 お二人が亡くなられてもうすぐ一年が経つ。
 そんな意識がわたしには芽生えている。
 上田耕一郎さんの死も忘れてはいない。

 今は身を 水にまかすや 秋の鮎

                        合掌

『私の家は山の向こう』~「中華人民共和国建国60周年」を迎えて~

 『有田芳生 私の取材ノート』(同時代社)に「さようなら、鄧麗君」というテレサ=テンの死を悼む一文が載っている。私にとっては中学3年生の時分(1995年)に買った思い出深い作品だ。

有田さんは書く。

「最後の出会いにとなってしまった仙台で、彼女は、いつものように左手でVサインを示して微笑んでいた。私は鄧麗君に約束したように、彼女の人生を書くこと、そして彼女の思いを一人でも多くの人たちに伝えることで、時分なりの責任を果たしたい。

 一部の週刊誌などが、鄧麗君の死を興味本位に取りざたすることへの怒りを込めて、私は彼女の内面へと一歩でも歩み寄り、もはや本人自らが語ることがかなわない思いをできるだけ綴っていきたい。さようなら鄧麗君。あなたの澄んだ歌声は、私たちの心の中にいつまでも流れ続けている。もういちど、さようなら鄧麗君……。」(95年5月26日記)

 仙台という地名は魯迅が学んだ地であることから、中国人にとってはよく知られている。
 有田芳生さんは10年後の2005年3月30日に『私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実』(文藝春秋)を上梓した。労作を拝読し、1989念5月27日夜に香港のコンサートでテレサ=テンが歌った『私の家は山の向こう』(*原題は前掲著に刻まれている。CDが付いている)を拝聴して、「我愛民主」「民主萬歳」という故人の御意志が叶う日を切に念じ上げる。(つづく)

追伸1:天安門事件で学生には法国・国歌「La Marseillaise」を歌う者もいたという。たしかに、多くの国の民主革命で同曲が歌われた歴史がある。血なまぐさい「革命歌」よりも、美しい歌詞・旋律の『私の家は山の向こう』のほうが民主化を求める象徴に相応しい。

追記2:リヨネル=ジョスパン内閣(1997-2002)に外務相を務めたユベール=ヴェドリーヌ氏の来日講演を今年拝聴した。同氏は民主化を「内的なポテンシャル」に求められた。

2009-09-28

平成の大塩平八郎に「連帯保証人」制度の廃止を望む

亀井静香・金融相の地元秘書と電話で話したが、抗議の電話が多く来ているという。
いわゆる「亀井モラトリアム」「平成の徳政令」に反発は強いようだ。

昨朝のテレビ朝日系列『サンデープロジェクト』でも出演した亀井大臣は財部・榊原英資・田原総一朗から総批判を受けた。不況になると拝顔するリチャード=クーさんのみが擁護された。しかし、袋だたきにあいながらも、一歩も譲らず、まことに心強い。

この際だ。

民衆を苦しめる「連帯保証人」制度を廃止してはどうか!?
民衆は歓喜するであろう。

2009-09-24

ドミニク=ド=ヴィルパン前首相の悲劇

イラク戦争の開戦にフランス共和国外務相として反対して、国際連合や国際連合安全保障理事会などで活躍して、
「フランスの貴公子」として脚光を浴びたドミニク=ド=ヴィルパン前首相&元外務相はニコラ=サルコジ現大統領を
内務相時代に職権を濫用して失脚を謀ったことが主な理由で、刑事被告人の身にある。
わたしは事件当初から「ドヴィルパン冤罪説」「国策捜査説」を旗手鮮明に打ち出している。

歴史家・詩人としても評価されている教養と智性の貴公子・ド=ヴィルパンが不遇の身にあることには
心より同情を禁じ得ない。日本国が亡命先として名乗りをあげ、「外交顧問」に就いてもらっては
どうか……とふと夢想する。

ドミニク=ド=ヴィルパン首相が誕生したとき、当時肩書きのなかった
コリン=パウエル元国務大臣から

「真の友人であり、畏敬するドミニクが首相に就いたことを心から祝福いたします。おめでとう、ドミニク。」

という趣旨の祝電が届き、イラク戦争で二人が烈しくやりことを知っていたので、わたしは
正直、驚いた。ヴィルパン元首相を日本でも応援していけないか、在日フランス人の仲間と
相談している。

HES(同性愛と社会主義)

フランス社会党系列のLGBT団体『HES』(同性愛と社会主義)に
6月に入会した。洗礼を受けていないものの、教会に通い、
キリスト教プロテスタントのカルヴァン派から受けた影響は
否定できないため、イギリスを拠点とする組織だが、
キリスト教徒によるLGBTの団体にも加入した。
背教者と指弾されるかもしれない。

HESの年次総会が9月26日にあり、出席できない
ことと、新執行部を支持する書簡を送った。

ことあるごとに政治家としての手腕を高く評価してきたニコラ=サルコジ・フランス共和国第五共和制第六代大統領は公約で、同性愛者の権利を向上させるため、PACS制度を改正した『Super PACS』の導入を約束した。また、『同性愛者は人類の敵』と国会で演説した国民議会議員を2007年総選挙でサルコジ与党・UMPは公認しないと約束した。

しかし、公認はしないが、対立候補も立てず、地元議員が応援するなど、本質においては公認候補と大差なかった。
同議員が楽勝だったのは御承知の通りだ。
Super PACSも忘却の彼方へ……。

法国に滞在中、サルコジ氏と接する機会を何度か持ったが、同氏からはアジア系に対する嫌悪感とHomophobieを感じられた。

未曾有(みぞう)の経済危機をフランス・ドイツは脱したというのが多くのエコノミストの見方だ。
サルコジ大統領は優秀だ。しかし、“危うさ”も持ちあわせており、私はその点を指摘した。
大統領になってからも、同氏の体質は変わっていない。

新自由主義者だった同氏がリーマンブラザーズ破綻後、ネオ保護主義者に転向したのには驚かされた。
大英王国においては、opportunistと冠されるのか、pragmatistと冠されるのか。
経済政策においては、サルコジ氏は180度、転換したのに、初期から改革者として
変わらずに礼讃している人もいる。

全否定・全肯定でなく、部分否定・部分肯定をモノカキは心せねばならぬと
心に留めながらも、その戒を護れているか問われれば、答えに窮する。