2009-09-28

無職になり、失業保険をもらうこととなった [下関マグロ 第9回]

雑誌『スウィンガー』の編集長である佐々木公明さんが、電話をくれた。

「増田くんも独身でどこで、ちゃんとご飯食べてないんじゃないの? たまにはウチにきなよ」

佐々木さんは新婚で、同じ会社の女性と結婚していた。だから、僕は両人を知っているのだ。家をきけば、歩いていけるほどの距離ではないか。

約束の日、佐々木さんの家に行くと、スーさんもいた。かつて一緒に暮らしていたスーさんである。彼は今、落合に住んでいると言った。

佐々木さんの奥さんの手料理をいただきながら、スーさんになにをしているのかと聞けば、

「失業保険をもらっているからなにもしてないよ」

という答えだった。

ほっほー、失業保険かぁ。それもいい。以前、僕らがいた小さな出版社は、ちゃんと失業保険を支払ってくれていたのだ。だからそれをもらわない手はないとスーさんは言う。

もっと詳しく知りたくて、僕はスーさんにあれこれと質問した。スーさんは、栃木訛りの早口な言葉で説明してくれる。

「職安では、まず大人数で話を聞き、それから個別の面接があるんだよ」

今はハローワークという名称だが、当時はまだ「職業安定所」であった。通称、「職安」である。失業保険をもらいながら、職をさがすというのがその役割だそうで、そういうこともこのとき初めて知った。

「やりたい仕事を絞るほうがいいみたいだよ。僕の場合は〝編集〟がやりたいと言ったんだけど、そうすると『そういう仕事はこちらに求人がないんで自分で探してください』というわれるんだ」

ほっほー。僕は身を乗り出して聞いた。

「ヘタになんでもやりますなんて言うと、いろんな会社の面接に行かされたりして大変だからね」

なるほど。

「でも、バイトとかできないんでしょ」

「そんなことないよ。たとえば、ちょっと原稿を書いて原稿料をもらったっていうような場合には、それを申告すればいいんだよ」

この言葉に僕は、無職になることを選択するのだ。さらに結果からいえば、この期間があったから、僕はフリーライターになったといってもいい。今から思えば、このときが僕の人生のターニングポイントだった。

さっそく僕がやったのは、家に帰って、失業保険の書類を探すことだった。たしか、会社を辞めるときに経理の人がくれたはず。3畳の部屋のいろいろなものの下に書類はあった。あとはこれを持って職安に行けばいいのだ。

季節は夏だった。僕は広告代理店ハリウッドの葛飾社長に会社を辞めたいと言い、それはすぐに了承された。

最初に職安へ行った日は、1984年の9月26日(水曜日)であった。なぜこんなにくわしい日付がわかるかというと、昔の手帳が出てきて、それを参考にこの原稿を書いているからだ。それによれば、9月25日の欄に給料と書かれている。つまり僕は9月25日に給料をもらって広告代理店ハリウッドをやめ、翌日には職安に行っているのだ。

当時の記憶をたどってみると、職安でのやりとりは、まさにスーさんに聞いた通りだった。大人数で話を聞き、個別で面接をする。最初に行ったときに希望の職種を紙に書かされた。僕はそこに迷わず「編集」と書いた。個別の面接では、係の人から、予想通り、そういう求人はないから自分で探してくれと言われる。最後に書類を提出すると、その期間の失業保険給付の手続きが終わる。保険金は銀行振り込みであった。人にもよるが、僕は3ヶ月ほど失業保険が出たはずだ。金額はよく覚えていないのだが、給料をもらって働くよりは安く、なにもしないでもらえるとしては実においしいという金額で、たぶん月に10万円前後だったのではないかと思う。

職安では正しい申告をしないと大変なことになると脅された。大人数で話を聞くときは、たいてい不正受給の話が中心なのだ。こっそり働き、そのことが発覚すると、もらった保険金の3倍の額を返済しなければならないし、この先10年間は失業保険を得られないという罰則があるのだそうだ。そして、発覚するほとんどのケースがタレコミからだそうだ。

「今日もそういう電話が職安にはたくさんかかってきます」

係の人がそう言ったのを今でも覚えている。だから、たとえば引っ越しの手伝いをしてお金をもらった場合などは、ちゃんと申告するようにと言われた。もちろん、これは当時のことなので、今は規則が変わっているかもしれないが、若い僕にごまかしてはダメだという気持ちを強く植え付けるには充分であった。

僕はこの期間に、ライターか広告代理店の仕事をやって、それでも得た収入はちゃんと申告しようと考えた。ただ具体的に何か仕事が決まっているわけでもなかったので、生活を切り詰め、この3ヶ月で自分の人生の方向を決めようと考えていた。

そのためにも名刺は必要だった。手帳によれば、同じ週の金曜日に名刺を受け取っている。名刺の肩書きは「オフィスたけちゃん」。自分の名前をもじってつけた会社名である。何でも屋、便利屋という意味でこの名刺を作った。僕はさっそくこの名刺の一枚目を広告代理店ハリウッドの葛飾社長に渡した。
「なんだかラーメン屋の名刺みたいだなぁ」 と言われたのを覚えている。

伊藤秀樹やら他の人たちにも名刺を渡したし、とにかく会う人ごと名刺を渡した。時には、あるとき東中野の書店でエロ本を立ち読みしている女性がいた。おもしろそうな人だと思い、その女性が書店を出たところで声をかけ、名刺を渡した。今から考えればワケがわからないが、とにかく新しく作った名刺を人に渡したかったのだ。

そして、1984年の手帳によれば、10月1日の月曜日に伊藤秀樹の引っ越しを手伝った。僕は伏木くんとともに吉祥寺の駅にいた。伏木くんは伊藤秀樹のことを「伊藤さん」と呼ぶ。前述したようにパインから「伊藤ちゃん」でいこうと言われていた僕は少し混乱していた。そこで、僕が選んだ選択肢は「秀樹氏」であった。

とはいえ、この呼び方は僕もあまりしっくりきていなかった。そんなわけで、新居へ行くと、僕や伏木くんなんかが住むところよりはワンランク上の住まいである。風呂があるのだ。やはり、バンバン稼いでいるフリーライターは違うなぁと実感した。とはいえ、引っ越しは赤帽に頼んだとかで、荷物も少なく、すでに部屋に運び込まれ、手伝うことなどほどんどなかった。

僕はオフィスたけチャンの名刺を渡し、冗談めかして失業保険の話をした。

「たとえば、引っ越しの手伝いとかで、お金をもらっても申告すればいいんだから」

伊藤秀樹は苦笑いをしながら、

「金は出せないけど、せっかく来たんだから、蕎麦でも食べてってよ」

と近所の蕎麦屋から蕎麦をとってくれた。天ぷら蕎麦がよかったが、そういうことは言えず、もり蕎麦をすすった。しかし、おもしろいもので、このときに食べた蕎麦というのが、人生でもいちばん旨い蕎麦だった。

2009-09-21

借金して吉祥寺に引っ越した [北尾トロ 第8回]

いたいだけいていいよと言ってくれたからといって、2カ月半は好意に甘え過ぎである。出て行ってくれとパインに言われるのも仕方なかった。新しい住処を見つけなければ。

さりとて引っ越し資金などあるはずもなく、借りるアテは親しかなかった。半端に借りたってすぐに困窮するのは目に見えているので、100万円の借金を申し込む。状況がわからない親は息子が居候生活していることを気に病んでいて、なんとかOKが出た。この借金には後々まで苦しめられることになるのだが……。

部屋を借りるにあたり、どうしても欲しかったのがシャワーとクーラーだ。独り暮らしを始めてから、風呂付の部屋に住んだことがなかったのである。クーラーも同じだ。

吉祥寺で物件を探すと、家賃5万円のワンルームが見つかった。収入がほとんどないことを考えると家賃を払っていける自信はなかったが、こぎれいなワンルームの誘惑には勝てない。前家賃まで入れても当座の支払いは6カ月分の30万円。手元に70万円あればしばらくはなんとかなるだろう。

引っ越しは赤帽1台で済む量でひとりでも良かったが、パイプベッドやテーブルを買わねばならないと言ったら、増田君と伏木君が手伝いにきてくれた。買い物はすぐに終わり、引っ越しそばをほおばってから喫茶店に入る。平日の昼過ぎだというのに本日の予定はもう終了。急ぐ用事もない。要するに3人ともヒマ人なのだ。

「ユニットバスとはオシャレですなあ。建物の名称が『コーポ イン マイ ライフ』なのはカッコ悪いように思いますが」

伏木君は横浜の古いアパートに住んでいて、当然風呂もシャワーもない。

「広くていいよね。ぼくなんて3畳1間だよ。手も伸ばせば何でも届いて便利なんだけど、身動きとれないもんな。そこは工夫して住んでるけど、アレだな、地震があったら確実に死ぬね」

増田君のアパートは家賃2万円くらいだそうだ。ぼくもシャワーなんて贅沢を言わずに分相応の物件を探したほうが良かったか。

「何をおっしゃいますやら。伊藤ちゃんはもうバリバリのフリーライターなんだから、どんどん稼げるでしょ。現にイシノマキからも仕事がきてるんだから」

「いいですなあ、うらやましいですなあ、はい」

どうもふたりは、ぼくがフリーライターとして順調なスタートを切ったと勘違いしているらしい。それは誤解だ。居候中の2カ月半は無収入だったし、イシノマキではトラブったし、やった仕事と言えばパインのアシスタントと増田君に依頼された『スウィンガー』のコラムだけ。いいことなんてありゃしないのである。

「えぇー、そうだったの? ぼくはキミがいきなり売れっ子になってるとばかり思っていたから頼んだのに」

増田君が驚いたように言うと、伏木君もすぐに調子を合わせる。

「イシノマキで敏腕編集者としてならした伊藤さんでさえそんな状況とはキビシいですなあ」

イシノマキでは単なるバイトだって。それに、ぼくの後は伏木君が引き継いで無難にやってると、いつか社長が言っていたよ。

「それが私、つい先日イシノマキを辞めまして」

「はやっ」

「働いたのは3カ月ほどですか。伊藤さんの記録はあっさり抜かせていただきました。それでまあ、真似するわけじゃないですが私も名刺を作りまして」

伏木君が差し出した名刺には、フリーライターの肩書きがあった。と、すかさず増田君も名刺入れを出す。

「なんじゃこりゃ」

そこには“なんでもやります オフィスたけちゃん”と印刷されている。

「ぼくもフリーになったんで、この際便利屋でもやろうかと思って作ってみたんだよ。ね、いいでしょ、オフィスたけちゃん。親しみやすくて」

「で、何か依頼されたの?」

「いや〜それがさ、名刺渡すと受けるんだけど、不思議なことに誰からも仕事は頼まれないね」

「増田さん、このオフィスというのはどこかに事務所があるということなんでしょうか」

「まさかでしょう伏木君。オフィスたけちゃんの事務所はぼくの住む3畳間に決まってるじゃん」

「はぁそうでしたか。そりゃまた地道な……がんばってください」

コーヒ−1杯で粘れるだけ粘ったが、わかったことと言えば、3人とも自称フリーライターや自称便利屋でしかなく、仕事もなければ将来の展望も開けていないということだけだった。お先真っ暗なわけである。打開策はないのだろうか。

「じっとしてても仕事なんか来ないよ。雑誌とかに営業をかけるしかないんじゃない?」

オフィスたけちゃんはさっぱりだが、広告営業の仕事もしていて3人の中ではもっとも世間と接している増田君が即座に答える。

「パインからもそう言われたよ。企画書を書いて持ち込めって」

「なるほど、それが良さそうですね。ふんふん、参考になります。それで、伊藤さんはどういう企画書を作ったんですか」

「それが、作ってないんだよ」

「ふんふん、それはなぜ?」

「何となく、かったるくて」

「……」

「プール通いで忙しかったし、馬券の検討もしなくちゃならないしさ。金がなくて買えなくても、検討はしてないと勘が鈍るから」

「……増田さんは広告営業ですから、企画書はそれこそ日常的にお書きになってるわけですよね。良かったら書き方のコツなど伝授していただけないかと」

「え、いや、ぼくは営業っつっても読者プレゼントに採用して下さいってお願いするだけだから。伏木君、人に頼ってないで自分で企画考えればいいじゃない」

「ふんふん、それはそうだ。では家に帰って今夜からさっそくやります。書き上げたら伊藤さんと増田さんに見てもらいますから」

自らを鼓舞するように叫んだ伏木君だったが、いつまで経っても読んでくれという連絡はなかった。ぼくはぼくで、熟考を重ねたはずの馬券がつぎつぎに外れ、虎の子の70万円を減らし続ける毎日。増田君のオフィスたけちゃんにも仕事は入らない。

その頃から増田君と会う機会が増えた。お互いにヒマだったし、同年代で話が合う。そのうち、ぼくは彼のことをまっさんと呼ぶようになった。会うのはだいたい吉祥寺のぼくのところ。レコードを聴いたり、井の頭公園を散歩したりと、やってることはたあいない。どちらも金がないため飯を食うことさえ慎重に検討を重ねてからという感じだ。時間だけがたっぷりあった。ぼくもまっさんも会うと饒舌になり、話だけは尽きなかった。

2009-09-14

北尾トロ(伊藤秀樹)への原稿発注! [下関マグロ 第8回]

広告代理店ハリウッドにいた1984年の夏、僕はけっこう自由にあちらこちらに出歩いていた。

前にも書いたように仕事のひとつは、雑誌編集部を訪れて、オリーブオイルを読者プレゼントのコーナーで取り上げてもらうためだ。

当然ながら、僕が昔いたスワッピング雑誌『スウィンガー』にも足を運んだ。

『スウィンガー』を発行する出版社は乃木坂にあった。

この年の夏、まだ会社は平和だった。実は数年後にはいろいろなことが会社に起こるのだ。たとえば、会社をやめた社員のひとりが、投稿をしていた夫婦を恐喝し、逮捕されるという事件を起こした。読者や投稿者の情報をしっかり管理しなければならないこの手の出版社にとっては致命的な事件だったかもしれない。

余談だが、1984年といえば、ロス疑惑が報じられ始めた時期で、同じくスワッピング雑誌であった『オレンジ・ピープル』がパーティに参加している三浦和義の写真をマスコミに出していた。テレビなどにもよく出ていた写真だ。この事件が国民的な大事件として興味を持たれるひとつの要因だったかもしれないが、スワッピング雑誌として、情報管理はどうなっているのかというような疑問を読者や投稿者に与えたのも確かだ。

さらに会社のゴタゴタは続く。金銭関係のトラブルから会社が乗っ取られてしまうのだ。そのため社長が会社を追い出されるということになった。この社長は名前を田中浩といった。「わんぱくでもいい」というハムのコマーシャルなどで有名な同姓同名の俳優もいたが、もちろん別人だ。この人の経歴はおもしろく、以前は藤村有弘という俳優のマネージャーをやっていたそうだ。藤村有弘といっても今の人は知らないだろうが、僕たちの世代にとっては馴染みが深い。NHKで夕方やっていた人形劇、『ひょっこりひょうたん島』でドン・ガバチョ(初代)の声をやっていた人である。また、日本映画には欠かせない名脇役でもあった。ところが、藤村有弘は、48歳という若さで急死してしまう。

たぶんそのあたりから、田中氏はスワッピング雑誌に関わることになったのだろう。最初は『ホーム・トーク』という日本で最初のスワッピング雑誌の編集長をやっていたようだ。そこから営業の社員などごっそり引き連れて独立し、『スウィンガー』を創刊したのだという。

田中社長は、編集にしろ経営にしろ素人であったし、やり手ではなかった。そのため、資金繰りなどのためにスジのよくないところから金を借りていたようだ。

しかし、田中社長は楽しく気のいい人であった。社員のことを「お前さん」と呼ぶような江戸っ子であった。浜田山に素敵な家があり、そこにも何度かお邪魔し、食事をさせていただいたことがあった。きれいな奥さんに、美しい高校生の娘がいた。また、夏には静岡県下田市にあった藤村有弘の別荘だったというところで過ごさせてもらったりした。

そんな田中社長は会社を追い出され、別の会社から同じような名前の雑誌を出していたが、残念ながら若くしてお亡くなりになった。まだ50代ではなかったろうか。

しかし、それらは、これから起こることで、1984年の夏、まだ『スウィンガー』編集部は平和であった。

「増田くん、いい書き手の人はいないかなぁ」

編集長の佐々木公明さんからこんなことを言われた。当時の『スウィンガー』誌には、富島健夫や寺山修司などといった有名な作家がコラムなどを書いていた。今から思えばなかなかすごい雑誌だったといっていいだろう。

「ええ、いますよ」

僕は安請け合いをしてしまった。書き手といって頭に浮かんだのは、イシノマキで知り合った伊藤秀樹だった。

彼はイシノマキでも、当時有名な女性ミュージシャンなどをどんどん取材するやり手のライターだ。そんなことを佐々木さんに話した。

「だったら、原稿もらってきてよ」

内容を聞いたら、なんでも自由に書いてくれていいと言ったのは覚えている。たぶんここで、くわしい文字数などを聞き、そして僕は伊藤秀樹に原稿を発注したのだろう。

実際のところ、僕はこのことをくわしく覚えていない。北尾トロのこのシリーズの原稿を読んで、自分が原稿を受け取って届けたりしたんだということがわかった。掲載誌ができたとき、2冊ほど彼に渡したのはかすかに覚えている。

ところが、驚いたのは、これが北尾トロ(伊藤秀樹)が最初にやった署名原稿の仕事だということだ。当時彼はそんなことはおくびにも出さなかったと思う。もし聞いていたら、原稿を発注しなかっただろう。僕はすでにジャンジャンバリバリ活躍しているライターだと思っていたから、彼に原稿を頼んだのだ。

しかし、人生はおもしろいもので、こうして僕は伊藤秀樹という人と親密になっていくのだ。

2009-09-07

フリーライター初仕事と居候生活 [北尾トロ 第7回]

名刺を作ったからといって、すぐに仕事があるわけでもない。編プロのバイトをやめるついでにライターを名乗ったようなもので、計画性もなければ具体的なアテもなかった。さらに金もない。手元にあるのはイシノマキから最後にもらった給料の残り8万円だけである。身の自由は手に入れたものの、当座はパインの仕事を手伝うことが主な仕事。これは家賃の代わりなので収入には結びつかない。

だが、これはまずい、ライターとして身を立てるべく動き出さねば……と思わないのがナマケモノのナマケモノたるところで、時間があるのをいいことに毎日ぶらぶらと街へ出て名画座で映画なんか観てしまう。食べ物はパインのところにあるし、8万円あれば2カ月は生きていけると消極的に計算してしまうのだ。面倒見のいいパインのことだから、それくらいだったら居候させてくれるのではないかという甘えもあった。

毎日外出するのは、しじゅう男ふたりでいたら煮詰まる、という理由からだ。時間がつぶせる映画館はその点でも都合が良かったのだが、観たいものがそうそうあるわけでもない。そこで今度はプールへ通い始めた。パインのマンションから徒歩15分のところに区営プールがあったのだ。

とはいえ、ぼくはカナヅチなので泳ぎにいくわけじゃない。プールサイドに寝転がって文庫本を読むのである。これがまた快適で、スイスイ読める。たぶん先のことを考えることから逃げていたのだろう。開高健、吉行淳之介、寺山修司の未読本を片っ端から読みふけった。夜はパインと喋ったりキャプション書きを手伝ったりで、なんとなく一日が終わってゆく。

「ヒデキは映画とか音楽とか競馬に詳しいんだから、企画書を作って売り込みにいけばいいと思うよ」

いつの間にかぼくを名前で呼ぶようになったパインから、少しは営業でもしてみたらどうだとアドバイスされ、試しにいくつか企画書を書いてみた。

「あまりおもしろくない。これじゃ通らないだろう。それに、ターゲットが見えない。提出する雑誌を想定して書いたほうがいいぞ」

それは困る。ぼくには、ぜひこの雑誌で仕事をしたいなんてところはないのだ。好きなジャンルについても、映画は観るもの、音楽は聞くもの、競馬はするものであって、書きたいとは思わない。

「割り切ってやるしかないんじゃないか。俺はこれからはこれだと思ったから無理してパソコン買って、そのおかげで死ぬほど仕事が来てる。そういう強みを持つとラクだよ。ヒデキは文章、そこそこ書けるんだから」

う〜む。正しいことを言われている気がするが、心の底からうなづけないのはどうしてだろう。

居候中、少しは仕事もした。パインの手伝いで『ホットドッグプレス』という男性誌でモデルをやったり(主役は女の子だから男は誰でもいいのである)、イシノマキに出入りしていた記者に頼まれて週刊誌のデータ原稿を書いた。記者からは何でもいいからネタを探せと言われ、怪しいハンコ屋をつかまえて話を聞いたのだが、取材が甘いと言う理由で未掲載。それ以上のことは、しつこく尋ねても喋ってくれなかったと言い訳したら「おまえ、金使ってないじゃないか。うまいもんでも食べさせて、相手が喋らないと申し訳ないなって気持ちになるように持っていくんだよ。経費は出すからバンバン使え」と叱られた。高級な店なんか知らないし、手元にごちそうする金もないんだとは言えなかった。この仕事では、サッカーの釜本選手が現役引退するから電話でコメントをとれと命じられ、やってはみたものの、こちらはサッカーのルールさえよくわかっていないため、釜本選手の怒りを買ってしまったこともある。また叱られ、そのうち記者からは連絡が来なくなった。

イシノマキからも仕事をもらった。やはり週刊誌の企画で、女性ロッカーの特集をするという。SHOW-YAや白井貴子、浜田麻里などを取り上げたいが、音楽に詳しい人間がいないから君に頼みたいと、デスクの高松さんに言われた。

「どこが受けているのか、音楽的な目標は何か、彼女たちの本音を聞き出してきて。データマンだから書いてなんぼよ。記事にまとめるのはアンカーマンがやるから、伊藤君はとにかくたくさんの話を聞きだせばいいの。わかるわね」

「はい、それならできそうです」

「じゃ、お願いね。ところで、ふたつだけ全員に聞いて欲しいことがあってさ、何歳で処女をなくしたかっていうのと、今日の下着の色は何色かっていうのを必ず聞いておいてね。ほら、おじさん雑誌だからそういうのに興味があるのよ。ノーコメントならそれでいいから」

ちょっと嫌な予感がしたが、せっかくの仕事であるから張り切って取材を申し込んだ。みんな熱心に答えてくれるので、処女喪失話は切り出しにくかったが、マネージャーの目を盗むように、インタビューの最後に汗をかきながら質問していった。ノーコメントもあったが、なかには真剣に答えてくれる人もいる。テープ起こしをしながら膨大な量のデータ原稿を書き、その最後に「処女喪失は19歳の時、先輩と。今日のパンティの色は薄いブルー」などと書き添えた。これで一丁上がり。仕事は終わったはずだった。

ところが、雑誌発売の数日前、高松さんから電話がかかってきて、記事のゲラ刷りを見た複数の事務所がカンカンになって怒っているという。

「まったく生意気なのよね。せっかく記事にしてやろうっていうんだから、少々の誇張はあたりまえじゃない。ま、イトウ君のせいじゃないんだけど、あなたが取材したんだし、事務所に謝りに行ってきて」

どんな記事ができ上がっているかも知らず飛んでいくと、音楽の話などほとんどなく、男遍歴の話題ばかりを集めた記事のコピーを見せられ、罵倒されまくった。相手が怒るのも無理はない。そこに書かれているのは、ぼくも聞いていない話ばかりだったからだ。取材相手のひとりは掲載を断ったほどである。ショックだった。こんな適当な作りをしていることにも失望したし、ぼくの報告を聞いた高松さんが何度も「取材してやっているのに生意気だ」と高飛車に繰り返すのにもうんざりだ。今後一切、イシノマキの仕事は引き受けないと決めた。

 そんなわけで、半ばふてくされつつプール通いをしていたぼくに、増田君がいい話を持ってきてくれた。以前在籍していた『スウィンガー』という雑誌で、エッセイを書く仕事である。

「伊藤ちゃんの名前で書くんだから、気を使わず好きなこと書けばいいよ」

「え、無名のライターがそんなことしていいの?」

「スワップ雑誌だから、読者はコラムなんてあまり読まないんだ。だから何でも書いていいって編集長が言ってた」

わずか1ページ、1500字の注文だったが、原稿用紙を埋めては消し、埋めては消しで、3日かかって書き上げた。歌舞伎町はパンンティストッキングに似ているという実にどうでもいいような内容だったが、増田君がおもしろいと言ってくれたので嬉しかった。何かを書いて、人におもしろいと言ってもらったのは、このときが初めてだったのだ。現金なもので、それまではパインみたいにプロのライターにはなれそうにないと弱気でいたのに、なんとかなるんじゃないかと思えてくる。

 その気持ちにすがりつくしかない事態がすぐに起きた。ある日、知り合いの女と会うことになり、たぶん朝まで一緒だろうと踏んで、今日は帰らないからとパインに断って外出したのだ。そうしたら、女とケンカになり、仕方ないので終電で戻ってくると、パインがベッドに女を連れ込んでいたのである。ここはパインの家なのだから、女を連れ込んだって一向にかまわない。女は前に会ったことがあるライター志望のコのようだったが、パインが誰とつき合おうとどうでもいいことだ。ぼくは「いいからいいから」と言って別室の床で寝た。

でも、良くはなかったのである。翌朝、眼を覚ますとすでに女の姿はなく、パインが神妙な顔で言うのだ。

「居候してもいいと言ったけど、いつまでもじゃなあ。こういうことだからさ、ヒデキ、そろそろ部屋を探してくれないか」

パインの部屋に転がり込んでから、2カ月半が経っていた。