2008-11-06

「梶山静六&亀井静香」と非戦の誓い

ウィキペディアの「梶山静六」元・衆議院議員の項に次のような話が載っている。

【梶山の長兄は太平洋戦争で戦死。長兄の「名誉の戦死」の報が伝えられた時、母は地元の人々とともに万歳三唱。梶山は母の行動を不可思議に感じたが、その後自宅土蔵の陰で号泣する母の姿を見つけ、母の心情を理解する。このような悲劇が二度と起こらぬようにと政治家を志したという。生前折に触れて「長兄の戦死を陰で嘆き悲しむ母の姿が私の政治の原点」と語っていた。この話を梶山から直接聞いた田中康夫は感銘を受け、「東京ペログリ日記」等でたびたび紹介している。】

「今は亡き茨城出身の政治家・梶山静六氏が幾度も僕に語ってくれた」話とことわって紹介するのだが、

「と記すと美談に過ぎぬ、と氏が田中角栄氏の懐刀だった事を知る向きは冷笑するやも知れぬ。
 だが、定見無き日本は、有視界飛行のグライダーであるべき。にも拘らず、数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ近時の若手政治家は、計器飛行のジャンボジェットに似て危うい。と語った氏の警鐘を、今こそ拳々服膺すべきではないのかな。」

と梶山先生の現在的意味を問う(http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/ent_573.php)。

「戦士は死ぬ。しかし、思想は生きる」

カストロ議長はそういったが、梶山静六先生の思想を正統に継承されているのが、国会では田中康夫・参院議員だけなのが哀しく、やるせなく、しかし、さすが、ヤッシーだと感心させられる。

康夫さんの意見にまったく賛同である。

亀井静香先生の「戦争の記憶」を伺った時、梶山静六先生の戦争体験と共に、記録されなければなるまい……と思えた。
「戦争を二度と起こさない」。
その誓いは相通じる。梶山先生は「智性・勘性・温性」を持つ康夫さんの真っ当な感覚を信じて、語り手に選んだのだろう。戦争で体験・不条理を康夫さんには頻繁に語られたと聞く。康夫さんは梶山先生の意志を受け継ぎ、現在も、次世代への「遺言」を伝えている。

1945年8月6日、静香先生は7歳で、原爆の閃光を目にした。「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

美談に過ぎぬ、しょせん、『保身を優先する警察庁長官だよ』と亀井先生を揶揄する人もいる。数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ赤松広隆・衆院議員が「民主党」選対委員長を務めておられる。野中広務「私は闘う」(文藝春秋)では非情の人として刻印するためだろうか、1995年末の社会党の新党結成プレ集会で、赤松広隆・衆院議員が「お前が委員長でいるから新党ができないんだ」と大声でヤジったと記されている(単行本・172頁)。 温厚な村山富市首相が「やれるもんならあんたがやったらいいじゃないか」と赤松を怒鳴りつけた。村山トンチャンが日本社会党委員長であり、赤松は役職もないいサラ議員だった。道理からすれば、赤松が「新党結成のために離党すればよかった」話だ。

亀井先生が赤松選対委員長と会談したエピソードは笑える。

【(8月半ばに)赤松が俺にさ、民主党と国民新党との選挙協力を提案してきたよ。料亭の座敷で交えてね、2人で話をした。あいつはいうんだよ。
「亀井先生、富山と広島ではウチは候補者を立てないから、全面的な御協力をよろしく御願いいたします」
私はこう応えてね。
「富山と広島ならば、どうぞ、おたくから全選挙区で、候補者を立ててみなさいよ。喜んで受けて立ちます。」
キョトンとしていたよ。話にならないと見限って、私は

「女将さん、決して、料理が不味いから箸をつけないのではありません。女将さん、どうか誤解なさらないでください。話が不味いんですよ」

といって、すぐに席を去った。赤松は終始、オロオロしていたよ。
まあ、選挙区調整は俺と小沢一郎で直接交渉することにしたよ。昨日も二人で一時間ばかり会って話をしたんだけれども、とにかくね、軽い気持ちでやったら、政権はとれないという点で一致している。「自公政権」をブッ倒すんです。自民党だけを問うているわけではないということ。国民新党にもね、公明党がすり寄ってきていますよ。よほど、焦っているのかね?民主党と国民新党の協力は俺と小沢でやるからさ。(笑)。まあ、見ていてくれ。】

亀井先生は現在の心中を、自身の短歌に託す。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

「静香」という名は女児につけられる。

「生まれたときに荒川静香さんみたいにさ、かわいくてきれいだったのよ(笑)」
「お袋が『静枝』だからね、その『静』をとって『香』をくっつけちゃったんじゃない」

と口にする(http://www.kamei-shizuka.net/media/2006/060510.html)。
その記事の小見出しには

【静香という美しい名前、好きです
美少女「静香」に会える!期待した兄の友達は駅で私を見て絶句した】

とある。

御本人に取材したからだろう。
「美しい名前」は「おふくろさん」からの最高のプレゼントだ……という夢想が強くなった。

2008-11-05

山本モナさんと原爆 ~愛に雪、恋を白~

亀井静香・衆院議員と山本モナさんの共通点は、広島県出身ということだ。
静香先生を被曝1世とするならば、モナさんは被曝3世にあたる。

フランソワ=ミッテラン師の最晩年について以前、書いた(http://www.pot.co.jp/oikenparis/mitterrand-2.html/)。

女性が愛に生きることを何で咎められようか……。

2008-11-02

「亀井静香&保坂展人」の絆 ~原爆と死刑廃止~

社民党・公認、国民新党・推薦。異色の組み合わせである。保革共存だ。

保坂のぶと(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/)さんの応援者として6人が写真入りで名を連ねている。

・小沢一郎(民主党・代表)
・土井たか子(社民党・名誉党首)
・菅直人(民主党・代表代行)
・亀井静香(国民新党・代表代行)
・福島みずほ(社民党・党首)
・山口文江(東京・生活者ネットワーク・代表)

亀井先生が名を連ねているので目を引いた。

保坂さんは次の総選挙では杉並区(東京8区)から出馬する。
対立候補は現職の石原伸晃「自民党」幹事長代理だ。
石原慎太郎・都知事が御寵愛する御長男である。
自分でも「親バカ」とおっしゃるほどだ。

慎太郎知事と亀井先生は入会に血判が必要とされた「青嵐会」以来の親友・同志である。慎太郎知事が自民党総裁選に出馬した時には清和会(三塚派)の決定に反して亀井先生は助太刀した。その結果、派閥を除名された。派閥より友情を大切にしたのだろう。

慎太郎知事が1995年に衆院議員在職25年を記念した演説で引退表明するのを事前に知っていたから、用があって退席しようとした野中広務先生を

「おい、ちょっと待ってくれ。彼の演説を聴いてやってからにしてくれ」

と亀井先生は引き留めたそうな。野中先生「私は闘う」に載っている逸話だ。

慎太郎知事の演説は実に見事だ。下野した自民党の政策提言『二十一世紀への橋』のほとんどを、慎太郎知事が1人で執筆されたんだとか。(同氏の御著書として『わが人生の時の時』 (新潮社)を私は推薦したい。)

都知事に就任された後、3人は定期的に料亭で会食するようになった。

大切に護ってきた御長男の対抗馬を推せば、御父上はお怒りになろう。

保坂さんと亀井先生は「死刑廃止を推進する議員連盟」を通じて知り合った。議連会長を亀井先生に要請したのがはじまりと聞く。

「死刑廃止を推進する議員連盟」では亀井先生が会長を務めて、保坂氏が事務局長として支えている。バリバリの改憲派と頑固な護憲派。ミスマッチに思える組み合わせだ。だが、2人は密かに敬い、絆を固くしてきた。

会長が自民党を追われても、亀井派から誰もついてこなかった。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

そんなやるせなさを抱いたのではないか。

「志帥会」会長の座にあった亀井先生は、「死刑廃止議連の会長が前面に立っているように思えますが……」という質問へ応答して、体育会系のノリで呼び捨てなのだろう、

「俺1人の力じゃないよ。保坂は真面目なヤツで、熱心に活動しているよ」

と語られた。2003年総選挙で保坂さんが落選する憂き目にあった折、
「次は亀井派から自由民主党公認で出ましょう」
と勝連太郎さんは笑い飛ばした。最高のユーモアだった。

亀井先生は事務所で油絵を描くことに時間を費やす。どちらかといえば、論理よりも、情の人だろう。ユーモアに溢れる親分だ。

保坂さんは資料マニアと呼ばれるほどに書類や本を多く読む。どちらかといえば、論理の人だ。真面目だ。真剣すぎる。実直の方だ。

亀井先生から今夏、お話を伺う機会を得られた。

師の根底には「人間へのやさしさ」がある。永遠のヒューマニストだ。

1945年8月6日が原点にあるように思えてならない。
静香先生は7歳で、広島にて原爆の閃光を見た。

「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

亀井先生はこう語る。次の総選挙を「最後の決戦」と位置づける。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

現在の心中を自身の短歌に託す。

「キューバ革命」の指導者・チェ=ゲバラを「心の師」として仰ぎ、事務所に肖像写真を飾り、東京大学経済学部生の頃は「マルクスの亀井」と呼ばれることもあった静香先生が、ガチンコで「革命」を起こそうとしている。

次の衆議院解散を「亀井静香なる解散」と呼びたい。